同奇襲のとき空爆が不十分として第2次攻撃を要請したのは、ハワイ作戦以来総指揮官を務める淵田(ふちだ)美津雄(みつお)中佐だった。その淵田は急性盲腸炎に罹り、赤城艦内で手術を受け、安静にしていた。そのため飛龍の友永丈市大尉が指揮官に抜擢された。

 南雲司令部は索敵の強化を確約していたが、実際にはおざなりと言っていいほど杜撰(ずさん)なものだった。索敵機を飛ばしたのは、攻撃隊が発進した午前1時30分(現地時間4日午前4時30分)であり、緊迫感に欠ける。

 友永はセイロン奇襲の淵田と同様、空爆は不十分と判断し、第2次攻撃の必要性を伝えた。これを受けた司令部は艦隊用装備で待機中の攻撃隊に陸用爆弾への転換を命じた。兵装転換は明らかに連合艦隊司令部の命令に違反する。

 これに気づいた山口司令官は真っ向から異を唱えた。すぐさま発光信号で「考慮」するように具申した。が、黙殺された。航空魚雷は5・43メートル、852キロもある。艦上機がぎゅうぎゅう詰めの格納庫で魚雷を外して陸用爆弾をとりつけるには相当の体力と時間がかかる。

 しかも索敵機から敵艦隊発見の報が入ると、基地攻撃をとりやめ、艦隊攻撃に兵装転換するように命じてきた。格納庫はパニック状態になった。午後5時20分、索敵機から空母発見と打電された。もはや一刻の猶予も許されない。

 山口は「現装備のまま攻撃隊直ちに発進」と訴えた。だが、司令部では戦闘機の護衛をつけた正攻法にこだわっていた。その間にもいたずらに時間が過ぎてゆく。一説に雷装転換を命じた時刻は空母発見後の午前5時45分と言われる。だとしたら無謀な賭けであり、いかに敵機動部隊を見くびっていたかがわかる。いずれにしろ兵装転換が命取りとなり、断末魔を招いたことは確かである。

日本海軍艦上機の攻撃を受ける米軍空母「ヨークタウン」