聖徳太子の業績を
どう評価するか

 聖徳太子の偉業として挙げられるのは、三経義疏の執筆、遣隋使の派遣と憲法十七条・冠位十二階の制定などだ。
 三経義疏というのは、勝鬘経・維摩経・法華経の3つの御経の解説書(義疏)の総称である。勝鬘経は如来が勝鬘夫人に分身して人々を教化し、仏教は一条であることを説いた経典、維摩経は在家の人が大乗思想の核心を説きながら仏弟子たちを論破する様子が叙述された経典、法華経は統一的真理と永遠の仏について述べた経典である。

 このような説明を読んでもピンとはこないと思われるが、それだけ難解なイメージがある御経ということだろう。それゆえ三経義疏は太子の撰ではないという説は津田左右吉氏以来あり、小倉豊文氏は、三経義疏が太子撰とされるのは太子信仰の成立した天平19年(747)以降とされた。

 そして勝鬘経義疏に関しては、藤枝晃氏の説がある。そこでは伝上宮王本「勝鬘経義疏」は隋で「勝鬘経義疏本義」をもとに改編されたもので、それを遣隋使が日本にもたらしたものと結論づけられている。こうした書誌学的研究の成果によって、三経義疏が聖徳太子の自筆ではないことが明らかになりつつある。

 ところが、『日本書紀』には、推古14年(606)7月に勝鬘経を、同年内に法華経を、推古女帝に講義している記事がある。これを事実とすると、600年(隋書倭国伝)に派遣された遣隋使がもたらした「義疏」を太子が大王の前で朗読したことになる。これもまた偉業ではないだろうか。三経義疏が自筆ではなくとも、それらを研究し、大王の前で講ずることができる日本人は太子以外にいなかったとすると、これは義疏の執筆に匹敵する偉業ともいえる。

 また、仏教に関していうと、太子は斑鳩寺(法隆寺)を創建し、四天王寺の創建に関わっている。当時は、蘇我氏の#法興寺#ほう¥こう¥じ#(飛鳥寺)があるだけで、日本には大寺院がほかにない状況で、こうした寺院を建造したこともまた、偉業というべきだろう。父の用明大王も推古女帝も大寺を造っていないことを考えれば、その事業の偉大さが理解できるはずである。

 次に遣隋使の派遣が挙げられる。『日本書紀』には推古15年(607)の小野妹子の派遣を第1回目として記述しているが、『隋書』の記事によって600年が第1回目の派遣であることが確認されている。この時の使者が誰かはわからない。しかし、第2回目の使者である小野妹子の冠位が#大礼#だい¥らい#とされていることより、その冠位が推古11年制定の冠位十二階によって与えられたものであることがわかる。さらに冠位十二階そのものは隋の制度である内官十二等の影響を受けたものであることは想像に難くない。つまり、これもまた600年の第1回遣隋使がもたらしたものと考えられる。

 そして冠位十二階制定の翌年、憲法十七条が制定されている。これは、第1条目の冒頭が「和を以て貴しとす」という有名な文章で始まるものである。全体として仏教的思想と儒教的思想が見出せるが、内容としては官吏としての倫理規範・職務規範といえる。「群卿百寮、礼を以て本とせよ」(第四条)、「群卿百寮、早くまいりておそくまかでよ」(第八条)などは、そのわかりやすい例であろう。

 このように見ると、遣隋使派遣、冠位十二階の制定、憲法十七条の発布は、一連の流れの中で考えられる。それは隋の律令官僚制の日本への導入という流れである。581年に隋が建国し、中国を統一するという国際環境の変化があった。百済は同年10月に、高句麗は12月に隋に遣使し、新羅は遅れて594年に遣使して隋の冊封体制下に入っている。こうした三国の動きと東アジア情勢の中で、日本も隋に遣使し、その体制下に入ったと考えるべきだろう。

 この三つの事業と聖徳太子の関係であるが、当時、もっとも仏教文化の導入を希望していたのが太子であり、憲法十七条にある仏教・儒教思想に詳しかった人物としても太子を挙げざるを得ない。推古が決定し、馬子が実行したとしても、太子も関与したと考えるべきであろう。