イラスト/フォトライブラリー

深川永代寺門前仲町の商家に、北八という男が住み込みで奉公していた。主人夫婦には男子がなかった。北八は働きぶりも実直なことから、主人は折りあるごとに、
「いずれ、娘のお時とおまえを夫婦にして、店を継がせよう。そのつもりで奉公してくれ」
と、将来は婿養子(むこようし)にする考えを述べた。どうせ夫婦になるのだからと、北八は主人夫婦の目を盗んで、お時の気を引こうとした。ところが、お時はまだ初潮もない年頃で、色気はないため、北八のさそいにはまったく応じなかった。

年が明けて天保四年(1833)、お時は十三歳になった。北八は二十三歳である。三月二十八日の夜、たまたま主人夫婦が外出し、ほかの奉公人もいないのをみすまし、北八はお時に言い寄った。
「なあ、どうせ夫婦になる仲じゃないかね」
「いやだよ」
「いいじゃないか」
「変なことすると、お父っさんとおっ母さんに言いつけるからね」
「ちょっとだけだよ」
北八は女の手を取り、抱きすくめようとする。お時は北八を突き放してその場から逃げ去った。

その後、お時は北八が強淫しようとしたと両親に告げた。激怒した主人は北八に暇を出した。店を解雇された北八はもはや行くあてもない。将来への絶望と、お時への恨みから、女を殺して自分も死のうと決意した。ひそかに店を見張る。お時が近所の知人の家に行くところを、そっとあとをつけ、掘割のあたりでかねて所持していたカミソリを取り出し、顔と手に切りつけた。
「キャー」
と叫び、お時はその場に倒れ伏した。それを見て、お時が死んだと思った北八は、自分の腹部や喉をカミソリで切ったあと、掘割に身投げをした。すぐに人が駆けつけ、お時の介抱をするとともに、北八も水から引きあげた。切り傷は浅かったため、お時はまもなく全快し、大きな傷跡も残らなかった。死に切れなかった北八は牢に入れられ、主人の娘に刃物で切りつけたとして、同年九月、引廻しの上、磔(はりつけ)の刑を言い渡された。

『藤岡屋日記』に拠ったが、性欲の衝動を抑え切れなかったばっかりに、北八は将来を棒に振ったことになろう。「愚かなヤツ」と唾棄するのは簡単だが、男としては身につまされるものがある。実直な北八は遊里の遊女とも無縁で、禁欲生活を送っていたに違いない。その境遇は同情に値する。北八のような立場にありながら、「晴れて祝言をあげるまでは我慢する」と断言できる男は多くないのではあるまいか。なんせ、ひとつ屋根の下に生活しているのだ。北八の置かれた状況は、いわばご馳走を目の前に出され、「おあずけ」を命じられたようなものである。これは、かなりつらい。「男の愚かさ」と同時に、若い男の性欲の厄介さとも言えるのではあるまいか。

また、お時はまだ世間知らずの処女だったので仕方ないとしても、父親はあまりに人情味がないといえよう。男と女の機微にあまりに疎いといおうか。当時の刑罰とはいえ、北八の罪状に対して磔は過酷すぎる。