用明・崇峻と2人の大王が短命で終わった後、大和朝廷は画期的な政治判断を下す。それは女性の大王就任だった。欽明—敏達は父子継承、敏達—用明—崇峻は兄弟が行われてきた。これは大和朝廷の王位継承の原則に則ったものだった。ところが、崇峻が崩御したあとに男子継承者がいなかった。つまり崇峻の息子も弟も存在しなかったのだ。

『日本書紀』の記事によると、崇峻5年10月に大王に山猪が献上された時に、「いつの日にかこの猪の首を切るように、私の嫌いな人も切ってしまいたい」と崇峻がつぶやいたとされる。それを聞いた蘇我馬子が、大王は自分を排除しようと考えていると恐れて、一族の者を集めて大王暗殺計画を練り、東漢直駒に崇峻を暗殺させたとある。大王が暗殺されたならば、その親族も一緒に暗殺されていることになり、継承者がいなくなるのも当然である。

 もっともこの大王暗殺事件は創作性が強すぎる。いかに蘇我氏が権力を掌握していたとしても、大王を殺害してそのまま無事でいられるはずがないからだ。馬子自身が大王にとって代わるというのならば話は別だが、そうなっていない以上、馬子による崇峻殺害説は創作としか考えられない。

 そもそも崇峻と馬子の関係は甥と叔父で、崇峻の母は、馬子の姉の小姉君である。つまり崇峻も蘇我系の王子であり大王であるから、馬子が彼を殺害する理由はない。崇峻にしても馬子を嫌う理由がない。むしろ即位の際には、馬子を後見人とし、その後も政策の相談相手として頼りにしていたはずだ。

 崇峻朝が短命に終わった理由を、書紀編纂の段階で、別に起こった東漢直駒の討伐事件と結び付けて創作されたと考える方がよいだろう。

 いずれにせよ大王家の継承の危機が生じた。この時、大王候補者は3人いた。

 1人は敏達と広姫の息子・押坂彦人大兄王子。次は敏達と推古の息子・竹田王子、3番目が用明と穴穂部間人王女の息子・厩戸王子だ。

 3人とも王子ではあるが、前大王(崇峻)の息子でも弟でもなかった。こうした場合、非常事態なので、3人の内から誰かを大王とするのが善後策としてとられるべきだが、異なる政治的な動きをした人物が現れたのだろう。

 それが額田部王女こと推古女帝だ。崇峻の妃・大伴小手子がどうしていたのかはまったく不明だ。夫の死のショックで引き籠っていたのかもしれない。あるいは殯に入っており、政治的な動きができなかったのかもしれない。

 額田部王女は、馬子の姉・堅塩媛の娘である。つまり馬子の姪にあたる。そして敏達の后でもあった。用明・崇峻が短命だったので、敏達の崩御からまだ10年しか経っていなかった。まだまだ発言権があったのかもしれない。用明の后・穴穂部間人王女が田目王子と再婚して発言権を失い、大伴小手子殯に入っている状況で、王族の有力者として発言できたのは額田部王女一人だった。敏達の長子である押坂彦人大兄王子の母・広姫はすでに亡くなっていた。

 こうした状況の中で、次期大王を決める豪族会議が開かれたはずだ。そこで、姪の意向を受けた蘇我馬子が発言し、それが穏当な内容であれば、決議されることになったのだろう。

 3人の候補者の中で誰一人として正式な後継資格者はいない。しかし、額田部王女が女帝となれば、竹田王子は大王の息子となり、その次の大王の資格を得られる。押坂彦人大兄王子にも厩戸王子にもそれは不可能だ。

 このような経緯で推古即位が実現したのではないだろうか。とすると、厩戸王子の摂政就任はありえない。息子・竹田に譲位するために女帝に即位した彼女が、ライバルの厩戸を摂政にするのは不自然である。

 おそらく推古即位後間もない頃に竹田王子は亡くなったのだろう。それゆえ、不自然な女帝即位を取り繕うために、厩戸の摂政という記事を挿入したと考えることができる。それゆえ表記も「録摂政」とあり、後の摂政と違いを見せている。

 では、蘇我馬子の考えはどうだったのだろうか。

 馬子は娘の刀自古郎女を聖徳太子に嫁がせている。2人の間には山背大兄王が生まれている。つまり、馬子にとっては聖徳太子が大王になってくれれば、自分の孫が大王になる可能性がでてくるわけである。それを馬子が期待しなかったとは考えられない。

 しかし額田部王女の意見も無視できない。あるいは馬子には、竹田王子が病弱であることがわかっており、亡くならないまでも、大王の仕事に耐えられないと予想できたのかもしれない。それゆえ、額田部王女の意向に従っても、いずれ聖徳太子に大王位がめぐってくると考えたのだろう。

 聖徳太子は、語学の天才でもあり、仏教への造詣も日本一であり、外交への関心も強い人物として周囲から認められていた。馬子の期待も高かったはずだ。

 ところが、実際には聖徳太子は大王にはならないまま没してしまう。条件は整っているのに、彼が大王にならなかったとすると、その理由は1つしか考えられない。聖徳太子に大王になる意思がなかったということだ。これまでは「なぜ天皇になれなかったのか」という問題設定がなされていたが、その設定自体が問題である。

 推古女帝も、我が子・竹田が亡くなった以上は聖徳太子に譲位する気持ちはあったと思われる。別の面から彼女の性格を見ると、意外な一面が覗ける。

 敏達の前妻・広姫が亡くなった後、どうやら推古はその遺児たちを引き取り、面倒を見ていたようである。それは押坂彦人大兄の妹・菟道磯津貝王女を自分の養女として菟道貝鮹王女と改名させて聖徳太子に嫁がせており、自分の娘・小墾田王女を押坂彦人大兄に嫁がせるということを実行していることから窺える。

 早世した兄や従兄を見て、さらに息子の死を経験し、大王家の血筋の維持に対して真剣になったのかもしれない。そこには王子・王女たちに対する親族としての愛情が感じられる。

 そのような推古が聖徳太子の即位を阻むとは考えられない。むしろ早く聖徳太子に譲位したかったかもしれない。

 ところが、聖徳太子は学問に夢中だった。太子も自分の立場がわかっていただろう。それゆえ、朝廷と無関係ではいられないし、東アジアの情勢を無視できないことも理解していた。しかし、政治に浸かってしまうことも避けたかった。それゆえ飛鳥から一定の距離をもった斑鳩に移転したと考えられる。仏教は解脱の思想を根本とする。それゆえ太子は政治という野望の世界から、早くに解脱してしまったといえるだろう。