『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみの河合敦先生に語っていただいた。外国人がみた驚きの日本。

「日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」(土橋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督 日本遠征記(四)』岩波文庫)
                          

マシュー・ペリー

 一八五三年、ペリーは四隻の艦隊で日本に来港し、米国大統領の国書を強引に受け取らせ、幕府に対して開国を求めた。困った幕閣が翌年の返答を約束すると、いったん日本を去ったが、翌年の正月早々に七隻の軍艦で再来した。このおり「沖合には百隻の軍艦を待機させている」と幕府に脅しをかけたのだった。このとき幕府は、ついにペリーと日米和親条約を結んで開国したのである。

 ペリーは「日本人は脅しさえすれば、言うことを聞く」と考えていた。だが、その一方で、冒頭の言葉のように、ペリーたちは冷静な目で日本のことを見つめていたのだ。
  単なる傲慢不遜なアメリカ人たちではなかったのである。                           なお、これはペリーたちだけの感想ではない。幕末に来日したイギリス公使オールコックも「もし日本の支配者の政策がより自由な通商貿易を許し、日本人をしてバーミンガムやシェフィールドやマンチェスターなどと競争させるようになれば、日本人もそれらにひけをとらず、シェフィールドに迫る刀剣や刃物類をつくり出し、世界の市場でマクリスフィールド(マンチェスター近郊の地で、絹製品の産地)やリヨンと太刀打ちできるだけの絹製品や縮緬製品を産出するだろう、とわたしは信じている。そのさいに、原料と労働力の安価なことは、生来の器用さや技術と相まって、機械の差をおぎなうことであろう」と述べている。
 実際、ペリーやオールコックの観察眼は正しかった。

 日米和親条約が締結されたとき、ペリーは幕府にプレゼントを贈っている。なかでもスゴイのが蒸気機関車の四分の一の模型であった。これは石炭を焚いて本当に走るタイプのもので、幕府の役人は大いに驚いた。ペリーは文明の利器を贈ることで、西洋文明の偉大さを認識させようとしたのである。
 ただ、驚くべきことに、それからわずか半年後、佐賀藩が蒸気機関車の製作に成功したことだ。長崎に来航したロシア軍艦に搭載された実物を見て、それと書籍を参考に独力で造り上げてしまったのだ。まもなく他藩も次々に試作に成功する。さらに、蒸気船まで造ってしまう。それができたのは、当時の日本人の教育水準が極めて高かったためである。これは、自慢して良いことだだろう。

 五年間、中国に滞在した経験を持つイギリス公使・オールコックも「日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから、もちろん外国製品の模倣をしたり、それからヒントをえたりすることだろう。中国人はそのうぬぼれゆえに、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。逆に日本人は、どういう点で外国製品がすぐれているか、どうすれば自分たちもりっぱな品をつくり出すことができるか、ということを見いだすのに熱心であるし、また素早い」(オールコック著・山口光朔訳『大君の都 幕末日本滞在記 下』岩波文庫)
 と日本人と中国人の違いをはっきり見抜いている。素直に良いものは良いと認め、これを模倣する努力、それが日本人をいち早く文明国へと押し上げたことがわかるだろう。