暗殺現場となった興禅寺の跡に建つ宝篋印塔:伝・三村家親供養塔(写真提供/岡山県久米南町教育委員会)

 

織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた人物は数多く存在する。では、その事件の実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語!

 

戦国史には、精確な狙撃術で名を残した者たちがいます。このコラムでも取り上げた武田信玄を狙撃したという「鳥居三左衛門(とりい・さんざえもん)」や、織田信長を狙撃したという「杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅうぼう)などがそうです。

そういった戦国のスナイパーの中で、日本史上初めて銃による要人暗殺を遂行したと言われる兄弟がいました。その人物こそ「遠藤兄弟」で知られた「遠藤又次郎(またじろう)・喜三郎(きさぶろう)」だったのです。

遠藤兄弟は阿波国(徳島県)に生まれでしたが、備中国や美作国などを流浪して、備前国津高郡加茂(岡山県岡山市)に居を移していました。この地を治めていたのは“戦国の梟雄”というべき謀将・宇喜多直家でした。直家は主君を追放し、舅や娘婿などを続々と暗殺するなど、勢力を伸ばすためには手段を選ばない人物として恐れられていました。

伝来して間もない火縄銃の扱いに長けていた遠藤兄弟は、この梟雄にその腕を買われ、宇喜多家に召し抱えられることになります。仕官は永禄年間の半ば頃(1560年前半)であったと考えられます。

この時、宇喜多家は窮地に陥っていました。備中国の大名・三村家親(みむら・いえちか)の大軍が宇喜多家の領地へ侵攻してきたのです。その背後には中国地方の大半を治める毛利元就(もうり・もとなり)が暗躍したため、三村家との合戦に気を取られていれば、毛利・三村と隣国の別の敵が手を組み、その隙に攻め込んでくることは明白でした。宇喜多家は正に存続の危機に瀕していたのです。

そんな最中、兄の又次郎は直家に屋敷に呼ばれました。

「家親が備中の成羽城(なりわじょう)にいた折、そなたも成羽にいたそうだな。ならば、家親の顔は知っておるか」
「存じております!」
「よし、又次郎。謀(はかりごと)をもって三村を討つ。本陣に忍び込んで家親を亡き者にしてまいれ」
「このようなことを殿から頼まれるのは、大変名誉なことでございます!身命を賭して謀を成し遂げてまいります!しかし―――」

直家からの依頼を承諾した又次郎はこう続けました。

「家親は軍勢が多く討ち取ることが難しいかもしれません。もし、某(それがし)が生きて戻ることができなかった時は、某の妻と子を宜しくお願い申し上げます!」