徳川綱吉が定めた生類憐みの令は、人より犬のほうが高い地位にある天下の悪法として名高い。ところが約300年続いた泰平の江戸時代には、ほかにも変わった法律があったことをご存知だろうか。なかでも家綱が定めた大髭禁止令は、今では考えられないものだった。

無精髭を除けば、今やファッションのひとつとしてさまざまなスタイルがある髭の生やし方。江戸時代初期には、この髭が太平の世に存在理由を問われた武士の行為によって、その存在を否定されたことがある。戦がなくなり、武士たちはその活躍の場を失うことになった。彼らの風貌は次第に荒んでいき、なかには長い髭を生やす者も数多くいた。こうした輩は「かぶき者」と呼ばれ、町の治安をたびたび乱すようになったという。

軍人としての存在意義を失った旗本や御家人たちは、やがて博徒や辻斬り行為を繰り返すようになった。こうした不良武士の取り締まりの一環として、元和9(1623)年に彼らを取り締まる禁令が施行されることになった。家綱が髭嫌いだったという説もあるようだが、その根幹は取り締まり。違反すると罰金刑が課せられ、その金額は今でいうところの15万円程度だったようだ。

しかし、なかなか好転しない治安のために、正保2(1645)年、第二の禁令が発令される。このときになり、はじめて大髭という言葉が禁令の覚え書きのなかに登場するのだが、髭そのものを厳禁としたものではなかった。

これでも旗本や御家人たちの無頼は収まることがなく、ついに家綱のときの寛文10(1670)年、大髭禁止令が発令されたのだ。その内容はかなり厳しいものであり、藩医などの禄を得る医者と山伏・神官・人相見などと、還暦を過ぎた隠居老人を除いては、厳禁とされた。とくに武家に対しては髭を剃った姿を正装とし、大名への取り締まりも厳しく、以降、髭を生やした肖像画の残っている大名は徳川斉昭以外確認されていない。

今でこそ、その流行でスタイルを変える髭。しかし江戸時代の日本では、それが人を威圧するという意味合いもあった。やはり、身だしなみが崩れていると、いつの時代でも無頼とされてしまうということなのかもしれない。