第29回 
流線型に思いを馳せる


流線型が格好良い

 流線型という言葉をご存じだろうか。知っていても、その言葉に対する印象は、年代によってだいぶ違うはずだ。「流線」とはstreamlineであり、流線型は、簡単に言えば、「流れを乱さないような形」の意味になる。この場合の流れとは、その形の周囲の気体か液体の運動であって、相対的に止まっているものには、流線型は無意味だ。
 乗り物などが走ったり飛んだりしたときに、空気や水の流れがスムースで乱流が生じないような滑らかなボディラインのことであり、その最たるものは、飛行機や潜水艦だろう。ごつごつしていない、すっきりとしていてスマートな形だ。
 流線型が流行したのは、百年ほどまえのこと。もともとは、飛行機や飛行船のデザインであったものが、鉄道や自動車に応用され、一般に広がった。鉄道も自動車も大して速く走れない時代だったのに、形が格好良く見えるから、というファッション的理由で人気が集まった。
 蒸気機関車も、この流行を取り入れ、滑らかなボディになった。日本も例外ではない。あの突起物の多い雑然とした外見の蒸気機関車に、カバーを被せたのである。
 残念ながら、あまり効果がなく、点検をしたり、ちょっとした修理をするのにカバーが邪魔で、のちに外されて、元に戻ってしまった。早い話が失敗だったのだ。
 もっと身近なところでは、自転車に乗る人が被る帽子とか、あるいは、バイクのヘルメットが流線型だったりする。だいたい、前は丸くて、後ろは尖っている場合が多い。
 流線型は、ようするに周囲に空気や水があるから生じる抵抗を、できるだけ少なくするための工夫であり、空気のないところでは、無用のものだ。宇宙空間を飛ぶ宇宙船は、どんな形だろうが関係ない。
 高速で飛ぶ鳥や、高速で泳ぐ魚などの形から、人間は格好良さを学んだわけだが、既に自然界の速度を超越している現代では、だんだん奇妙な形になりつつある。カモノハシみたいな新幹線とか、僕の世代から見ると、正直「格好悪いじゃん」と感じるのだが、これも、もちろん流線型であることにはちがいない。

 

流線型の生き方

 人の生き方、そのライフスタイルにも、僕は、流線型をよくイメージする。形が悪いと、周囲で乱流や渦が生じて、前進するための抵抗になる。人間社会は、空気よりもずっと密度も粘性も高い。どろどろと濃くて、ねばっとしているのだ。そんな中で人よりも違った動きをしようものなら、たちまち大きな抵抗に遭う。その抵抗は、速度に比例している。目立ったことをするほど、いろいろな邪魔が入るのだ。
 こういったときに、日頃から自分のフォルムを整え、洗練させ、表面を滑らかに磨いておくと、すっと抜け出すことができる。そういう人は、動いても周りが乱れないからだ。「あの人は、ああいう人だから」と周囲も諦めてくれる。そういう効果も、流線型が醸し出すのだ。突き詰めると、表面における付着が少ない形、ということになるだろう。
 逆にいうと、このように周囲を乱さずに速く走れる人の生き方が、格好良く見える。「どうしてあの人の周囲はあんなに理解があるのだろう?」と普通の人は不思議に感じるかもしれない。
 自分の好きなことができない人がよく口にするのは、この「周囲の理解が得られない」という抵抗感である。「家族の理解が必要」みたいに言う場合もある。
 ところが、周囲の理解とは、ねっとりつながっている状態であって、結局は、その理解が抵抗になっていることに気づいていない人が多い。
 「家族の理解」を「自由にさせてくれる」みたいな意味に使っているのだが、日頃は、縛られている状態を「理解」と言っている。この矛盾に気づくか気づかないかが、自由人になれるかどうかの分かれ道だろう、と僕は思う。
 かまってほしいのか、放っておいてほしいのか、どちらなのだろう?
 少なくとも、人の生きる「形」は、スイッチで簡単に切り換えられるようなものではない。どのくらいのスピードで走りたいのかを想定し、それに合わせて自分のフォルムを決める以外にないだろう。
 乱流が好きだ、摩擦も愛している、という人生もあるけれど。

 

執筆の季節

 毎年、秋から冬にかけて、小説を執筆することにしている。毎月1作書いて、来年発行予定のノルマを片づける。今年も例外ではない。あと1作書けば、来年分は終わり。
 発行予定は、さらに再来年まで決定している。道が先まで見えないと、恐くてスピードが出せない。

ドイツの流線型蒸気機関車の模型。実機同様、ボイラを火で熱して蒸気の力で走る。実機も模型もピンク色。