東京裁判を題材にしたNHKスペシャル「ドラマ 東京裁判~人は戦争を裁けるか~」が昨夜(12月12日)より放送中。
その放送に合わせて、「米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番」を12月16日に刊行予定。来日から40年日本を愛し、知り尽くしたケント・ギルバート氏が米国人の視点からみた東京裁判について論じていく。

 日本は、議会制民主主義の国だ。戦前もそうだったし、戦後もそうである。その議会(国会)で決議されたことには、重大な重みがある。国会決議を蔑ろにすることは、民主主義国家の在り方を否定することに繋がる。

靖国神社にて 撮影・末松正義

 一九五三(昭和二十八)年八月三日、衆議院本会議で可決した「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」によって、日本には、いわゆる「A級戦犯」のみならず、戦争犯罪人は存在しなくなった。それにも関わらず、「A級戦犯」が靖国に合祀されているから、云々と言う事それ自体が、国会決議を軽視した発言である。

 靖国神社に祀られているのは、「A級戦犯」や「戦争の犠牲者」ではない。国のために命を捧げた英霊である。
 国家の持つ至高の権利は、「国権の発動たる戦争」を行う権利である。主権国家には、自衛権としての「戦争権」が賦与されている。それは、個人に譬えれば、「生存権」であり、「正当防衛」の権利である。
 国家の決断として、戦われた戦争で「戦って命を落とされた方々」を慰霊し、顕彰するのは、国として当然のことだ。
 その戦争で、勝ったか、負けたかは関係ない。また、その戦争が、大義ある戦争であったか、そうでなかったかも、別次元の問題である。
 戦争の大義は、それぞれの当事国が、それぞれに主張すべきものだ。日本の戦争には日本の大義があり、正義がある。英霊の慰霊・顕彰は、日本という国家の大義に殉じたことによって、当然に為されるべきものである。敵国や第三国が、その慰霊・顕彰に口をはさむことは、厳に謹むべきだ。

 アメリカでは、戦死した将兵は、大統領よりも上の地位を与えられ、顕彰される。貴い命を国の為に捧げた英雄だからだ。
戦争で戦って、命を捧げた英雄の顕彰の仕方は、国によっても、その国の文化・伝統、あるいは宗教によっても違う。その違いは、それぞれ尊ばれるべきものだ。

◆英霊は、「戦争の犠牲者」ではない

 最近は、空襲体験のある人たちを、「戦争体験者」と呼んでいる。しかし、すこし前まで、「戦争体験者」とは、「戦争に行ってきた」人たちを意味した。「戦争体験」とは、「戦闘体験」と同義語だった。
 戦場で、敵を相手にして戦った人々だけを、「戦争体験」があると、言っていた。戦争が終わって、復員してきた軍人たちは、戦時中に、本土で空襲を体験した、女性や、子どもを、「戦争体験がある」などとは言わなかった。「戦争体験がある」というのは、軍隊に入って、実戦を戦ったことを意味したのだ。米軍の戦闘機から機銃掃射を受けた子どもが、「私は戦争体験がある」などと、言ったことはなかった。

 私の大学の卒論のテーマは、『三島由紀夫』だった。三島氏には「戦争体験」がなかった。戦争体験のある人たちからは、「楯の会」の一連の行動も、「軍隊ごっこ」に見えたことだろう。しかし、三島氏の場合は、一九二五(大正十四)年生まれだから、同期の中には大東亜戦争で散華した友人たちもいた。
 軍隊で殴られたという渡邊恒雄氏も、「靖国神社を参拝する時は、A級戦犯は除外して拝んでいる」と、公言する石原慎太郎氏も、戦争体験者ではない。
 いまマスコミに登場する、「戦争体験者」のほとんどは、いわゆる「焼け野原世代」だ。子どもだった頃に「空襲を体験した」という、世代の方々だ。確かにこの世代の方々は、「戦争の被害者」と、言える。アメリカ軍による無差別爆撃や、機銃掃射に恐怖を覚えた、という意味では、そのとおりだ。亡くなった場合は、戦争の犠牲者である。
 しかし、靖国神社に祀られる英霊は、戦争の被害者や、犠牲者ではない。実際に将兵、あるいは軍属として戦闘に従事して、命を失われた方々だ。彼らには少なくとも、「戦争の当事者」としての、意識と覚悟があった。

 もちろん、華々しい戦果を挙げ、散華された英霊の方々がいる一方で、敵と戦火を交えることなく、病死、あるいは、餓死した方々もいる。しかし、その方々も、国のために命を捧げられた、英霊である。「立派に、お国のために戦われた」と、そう慰霊し、顕彰することが大切なのだ。戦争を知らないわれわれが、勝手に「犠牲者」扱いすることは、英霊に対して無礼極まりないと、気づくべきである。
 この慰霊・顕彰ということは、どの国でも行われている。アメリカもそうだし、中国やロシア、韓国でもそうだ。
 靖国神社は、マッカーサーの「神道指令」によって、いまは、一宗教団体とされている。しかし本来ならば、国として祭祀を執り行って、靖国神社の英霊を慰霊・顕彰すべきであろう。このことは、政教分離とは、別次元の問題である。