常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 古代史重要地点をシリーズで紹介いたします。

同じ場所が戦場になる不思議

 壬申(じんしん)の乱(六七二)の主戦場は琵琶湖周辺だったが、奈良盆地の争奪戦も勃発していた。東軍(大海人皇子(おおあまのみこ)勢)は盆地側から西軍(近江大友皇子(おおとものみこ)勢)の陣取る高安城(たかやすのき)を奪い取ると、奈良盆地側から重要な峠道を封鎖し、西軍(近江の大友皇子勢)の盆地内への侵入に対処し、その上で河内(かわち)に攻め込んでいる。

 石川を渡り戦火を交えた(藤井寺(ふじいでら)市、羽曳野(はびきの)市、柏原(かしはら)市が戦場になった)が敗れ、退却し、ヤマトに敵勢が乗り込んできたところを、迎撃した。

 このように、壬申の乱でも、柏原市から県境付近で、戦闘がくり広げられていたのである。

 古代だけではない。天文(てんぶん)十一年(一五四二)には、大和川と石川の合流点付近、柏原市の太平寺の一帯で戦いが勃発している。河内国(かわちのくに)をめぐる守護代らの争いだ。

 これがいわゆる太平寺の戦いである。

大阪市柏原市HP参照/国土地理院・色別標高図を基に作成

 石川、大和川流域だけではなく、信貴山城(しぎさんじょう)(奈良県生駒(いこま)郡平群(へぐり)町)、二上山(にじょうざん)城(奈良県葛城市)、高屋(たかや)城(大阪府羽曳野市)といった、やはり奈良県と大阪府の境を挟んだ戦闘になった。

 そして最後は、慶長二十年(一六一五)五月、大坂夏の陣の小松山(こまつやま)の戦いだ。

 冬の陣のあと、大坂城の生命線である濠(ほり)を埋められてしまったため、後藤又兵衛や真田幸村らは籠城戦を不利とみて、豊臣方は討って出る策をとった。