常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 古代史重要地点をシリーズで紹介いたします。

ヤマトは西が主体になっていたという仮説を疑う

 奈良盆地にいて居心地がいいのは、西の人間ではなく、東の人間だと思う。これまでは、「先進の文物や人間は西からやってきて、ヤマトは西が主体になって造られたと信じられてきたが、この常識、一度疑ってかかる必要がありそうだ。

※( )内は1 平方キロあたりの人口密度 『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日 本の歴史 1)』松木 武彦:著(小学館、2007) を参照 『縄文時代―コンピュータ考古学による復元』 小山 修三:著(中公新書、1984)を参照し作成したものです。

 右の表を見てほしい。小山修三は縄文時代の人口をシミュレートしたことで有名だが、弥生時代の人口も試算している。

 そして、ヤマト建国直前の東側が、「なかなかがんばっていた」ことに驚かされるのである。

 鉄器の保有量ばかりに目を奪われるから見落としがちだが、人口密度という点では、むしろ東側が西を圧倒しているのだ。やはり、ヤマト建国と「東」を無視することはできない。

 ヤマト建国時に纒向にもたらされた土器の中で東海や関東の土器が過半数だったことについて、史学者たちは、「どうせ、労働力として狩り出されたのだろう」と斬り捨てるが、右の表を見れば、これまでの常識が吹き飛んでしまうはずだ。

 

『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日 本の歴史 1)』松木 武彦:著(小学館、2007) を参照し作成したものです。

   ヤマト建国時、多くの人々はヤマトや尾張から西に向かい、北部九州に至っていたことが分かってきた。

なぜ千数百年前の人の移動が把握できるかというと、当時の長旅では、「マイ土器」を背負っていったからだ。また、移住先でも土器を造ったのだろう。だから、地方色豊かな土器が、方々で見つかるのだ。

 問題は、「邪馬台国は北部九州にあって、東に移動してヤマトを建国した」というかつての常識が、この図だけで通用しなくなってしまうことだ。

 そしてヤマト建国のビッグバンが、東海地方から始まっているように見える。

 尾張付近から東西に人が移動し、これに刺激されるかのように、人々が動き出したように見えるのである。 

 ヤマト盆地の東側に山塊が塞がっているが、初瀬川(はつせがわ)に沿って、東に向かう道が縄文時代からすでに存在したのだ。最初の都・纒向がその初瀬川からほど近い場所に造られたことを、無視することはできない。

 ヤマト建国を主導していたのは、「東側の勢力」だったのではないかと思えてくるのだ。

国土地理院色別標高図を基に作成

 東側からやってきたから、いつでも東に逃げられ、いざとなれば、東に応援を頼める場所を、本能的に選んだとしか思えないのである。

 たとえば、現代の東京でも、東北から出てきた人たちは、東京の北側や埼玉県に住み、関西からやってきた人は、東京の西側に居を構える例が多いのだという。

 もちろん、帰省の際の交通の便が良いことが大きな理由だろうが、「少しでも故郷に近いところ」を選ぶのは、本能的なことではなかろうか。

地形で読み解く古代史』より

明日は「ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?」です。