今川氏の支配下にあった井伊家

 浜名湖の懐は深い。東名高速道路が湖上を渡る北側を引佐細江といい、奥浜名湖とも称される。この湖の北面に広がる山間部に入ってすぐの盆地を井伊谷といった。ここで神宮寺川と引佐川が合流し、その流れは都田川に注いで、奥浜名湖に至る。

井伊谷城の本丸跡。

 井伊谷は清流と湧水に恵まれ、何時の頃からか「井の国」と呼ばれ、その水の清らかさをもって井伊という苗字が生まれ、その一族は西遠江のこの地域に君臨した。

 直虎(次郎法師)はそんな井伊家の総領の娘に生まれた。だが彼女が生まれた時、井伊谷は井伊家の領地でありながら、行動を規制された占領下に置かれていた。

 それは太平洋戦争に負けて、GHQ(連合国最高司令官総司令部)に占領されていた、戦後すぐの日本の状況によく似ていた。占領していたのは駿河・遠江の二国をおさめる戦国大名の今川氏であった。

 井伊谷のいたるところから、三つの頂きをもち、なだらかな稜線が美しい三岳山が見える。標高は四六七・二メートル、ここに井伊家は山頂から麓にかけて、南北朝時代に戦闘用の山城として三岳城を築いた。

 この南北朝時代、井伊家は南朝方に味方して、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を宗主に迎えて、北朝方の今川氏など足利軍と戦った。戦いは遠江守護だった今川範国と三方原で北朝暦の建武四年(南朝暦延元二・一三三七)九月に戦ったのを皮切りに、今川氏を含む足利軍と戦いを繰り返して敗北した。この後、今川の支配下に否応なしに組み込まれ、九州出兵を命じられるなど、国人領主として軍役を担わされた。

 京都で応仁文明の乱(一四六七~七七年)が起き、やがて戦火は地方に波及すると、遠江では井伊家が今川の重圧から逃れようと、反今川勢力と連合して干戈を交えた。そして直虎の曽祖父・直平が井伊谷を統治していた永正十年(一五一三)、三岳城は今川氏の重臣・朝比奈泰以に攻められて陥落した。三岳城は今川に占領され、奥三河作手(愛知県新城市)の武将・奥平貞昌が城番となって、井伊家の動向を見張ったのだ。

 井伊家の生活の城はこの三岳城から南西に約二・五キロメートル離れた井伊谷にあった。ここに標高一一四・九メートルの井伊谷城が築かれており、麓に本丸、二の丸、三の丸に区画された居館をもうけて、生活と政務の場にしていた。

 だが今川氏に三岳城を奪われると、井伊谷居館にも今川氏の支配は及んだとみられ、直平は井伊谷を離れ、妻の実家である分家の井平氏の支配地を転々とし、とくに井伊谷居館とは三岳城を挟んで反対側に位置する川名の一帯に住んだとされる。