「逃げ恥」の最終回から1週間。「逃げ恥ロス」などという声も聞こえてきますが、星野原演じる津崎平匡のような中年童貞はいるのでしょうか!?
今年もクリスマスには節目の10周年となるクリスマス粉砕デモを決行。中年童貞を代表する組織!?ともいえる革命的非モテ同盟より話しをうかがった。

  皆様こんにちは、革命的非モテ同盟です。我々は恋愛を強制する空気やモテない人々に対する蔑視への反発として、この10年の間にほぼ毎年「クリスマス粉砕」「バレンタインデー粉砕」「ホワイトデー粉砕」の三大デモを敢行しており、「すべてのモテない人々のための心のセーフティネット」を自称している団体であります。

2016年12月24日に決行されたクリスマス粉砕デモの一コマ

 此度はこの場をお借りして「中年童貞はなぜ中年童貞なのか、そして中年童貞問題に対する革非同のスタンスについて」というテーマで一筆啓上させていただきます。近年になって童貞の高年齢化が問題であると言われておりますが、我々革命的非モテ同盟もデモなどを通じて多くの中年童貞の方と出会ってきました。そして何より我々のメンバーの中にも多くの中年童貞が居ります。言わば我々は中年童貞を代表する組織であると申し上げても過言ではないでしょう。そんな我々が多くの中年童貞に接する中で見えてきた傾向について述べると共に、いわゆる中年童貞問題についての意見を書き連ねたいと思います。

 まず初めに「中年童貞はなぜ中年童貞なのか」という点についてですが、中年童貞に陥っている人の多くは、すべての方がそうであるという断言はいたしましせんが、いわゆる発達障碍などの精神的疾患者によくみられる傾向を有する方が多い。そして、それ故に中年童貞になってしまったというケースが少なくないのではないかと考えました。

 その理由として、まず実際に革非同のデモに参加された方の中にも自分が精神障碍を抱えている旨をカミングアウトして下さった方が少なからず居られたこと。
 そして、中村淳彦(2015)『ルポ 中年童貞』(幻冬舎新書)に登場する中年童貞の方々の性格を評した記述、たとえば「スイッチが入ると、話が止まらない」「空気を読むとか、相手の顔色を窺うことは一切しないタイプのようだ」「子供の頃から融通が利かず正義感が強い」「プライドが高く、一般的な客観性などまったくなかった」といったものが、いずれも発達障碍にみられる特徴を良く示していること。
 そして、そのような傾向が革非同のメンバーに多くみられることがあげられます。
 端的に述べますと我々自身の経験、感覚的なもののみならず中村氏の著作からも同様の傾向が読み取れたことから蓋然性が高いと判断したものです。

 ここで発達障碍とは何かについて極めて簡易に記述しますと、様々な症状がある中で凡そ共通しているのが「社会性の欠如」と言われるものであり「空気が読めない」「他人の気持ちを推し量れない」「言葉の裏を読めない」「コミュニケーションが上手くとれない」といったものです。また基本的には先天的な疾患で根治は大変むずかしいと専門家によって言われています。
 疾患についての詳細は専門書に譲るとして、こうした疾患を抱える人達にとって随所にコミュニケーション能力なる物が要求される現代社会は大変な生き辛さを感じさせ、中でも自由恋愛ほど不得手に感じるものは無いようです。それは、極めて繊細なコミュニケーションを要求されるのが自由恋愛であるからに他なりません。

 自由恋愛を最良のものとする現代の風潮において、その傾向は大きなハンディキャップになることは想像に難くないでしょう。故に恋愛市場から取り残され続け、結果として中年童貞へと「転落」してしまったというのが彼等のあらましであるように思います。つまり彼等は「中年童貞である以前に何らかの問題をかかえた状態」と言われるべき状況の可能性があるのです。

 もし我々の考えが正しいのであるならば、中年童貞の問題は極めて複雑なものになると言えるでしょう。「お前はいい歳して童貞なのか、何となく変だもんな。性格をなおすために努力しろよ」といった言葉を投げつけたところで中年童貞問題の解決のためには何ら寄与することが無いのです。

 この問題に対する革命的非モテ同盟のスタンスは「そもそも中年童貞である現状を無理に『改善』する必要があるのだろうか?」というものです。

 僭越ながら世間の言説を拝察する限りでは、中年童貞から抜け出さなければならない客観的な理由を見出すことは出来ず、単に彼等に対する不快感や嫌悪感をにじませただけの主張に陥ってしまっているように感じられます。それが各個人の雑感の範疇に留まるものであるならば構わないのですが、中年童貞に対し恋愛や結婚を強いる理由、そしてそれが出来ないならば侮辱をして良いという理由には値しないでしょう。「何となく変に感じるからあいつらはおかしい」という言説はまさしく唾棄すべきヘイトスピーチそのものです。

 一つの例を上げて指摘しましょう。世の中には、中年童貞がオタク産業やAV産業といったコンテンツに没頭する、いわば人生をそういった産業の想定する「型」にはめ込まれることで消費活動を支配されている構造に不快感を抱いておられる方が多いように受け取れます。
 しかし果たしてその事が、中年童貞、つまり非モテの消費活動をリア充のそれに比して程度の低いものと見做して良い理由になりうるのでしょうか?
 非モテ、中年童貞の方々は(勿論全ての方がそうであるとは言わないまでも)オタク的コンテンツの消費により充実感や幸福を感じている事も確かなのです。我々非モテの立場からすると、恋愛や結婚やその後の家庭生活といった「型」に我々の人生を無理やりはめ込もうとする構造にこそ悍ましい感覚を覚えます。社会において典型的人生として想定されている恋愛、結婚、出産、マイホーム購入、子供の入試等々、これらとて人生をはめ込む立派な「型」であり、この分野に関わるビジネスの数や経済規模の巨大さはオタク産業やAV産業の比ではないでしょう。

 つまり人生を型にはめ込まれて消費活動を支配されているのはリア充界隈とて構造的には同じであり、規模的には非モテ界隈より遥かに巨大なのです。そのような状態にありながら中年童貞、非モテの消費活動の在り方ばかりに批判を行うのは大変に筋が悪いと指摘せざるを得ません。

 殊に恋愛行為が、資本主義的な市場競争原理に取り込まれてしまう状況は本田透がその著書『電波男』において「恋愛資本主義」として提唱した通りです。加えて着目すべきは同じく本田の言う「萌えによる恋愛市場からの脱却」という概念でしょう。いわばオタク産業的なコンテンツが中年童貞や非モテにとっての精神的なセーフティネットとして機能しているわけです。このセーフティネットを中年童貞から剥奪し彼らを恋愛市場に放り込むことに何の社会的意義があるでしょうか?

「恋愛や結婚をしない自由というものを尊重しないのは差別的なのではないか?」

 この個人の自由と多様性を尊重すべき社会では、そう問うことに社会的意義があると言えます。苦手で仕方がない恋愛も結婚もしないで社会にもできるだけ関わらないという道を選ぶ自由すら認められないというのであれば、我々非モテにとってはあたかも国家社会主義国に生かされているかの如き耐え難い息苦しさを感じることになるでしょう。そしてこのような非モテ、中年童貞の価値観に不寛容な空気がある限り、我々革非同は、恋愛や結婚をしない自由を勝ち取るための活動を続けてゆくことになろうと強く確信する次第です。

 恋愛に不適合な非モテがうまく恋愛市場に参入“しないで済む”社会の推進、言わば非モテダイバーシティ社会の実現を求める運動体として革非同は存在する意義があります。そして運動体であり続けることこそ、我々が「心のセーフティネット」を自称する理由なのです。