イラスト/フォトライブラリー

宿場の旅籠屋(はたごや)は飯盛女(めしもりおんな)と称する遊女を置くことを許されていた。そのため、宿場の旅籠屋は宿泊で利用する旅人もいたが、女郎屋として利用する男もいた。江戸時代も後期になると、品川宿の女郎屋は吉原と拮抗するほどの繁栄ぶりだった。品川は東海道の宿場であり、厳密には江戸ではないが、市中から近いことから、江戸の男たちの手軽な遊里だった。『想山著文奇集』に、つぎのような「怪談」が載っている。

文政のなかごろ、版木師がひとりで川崎大師(神奈川県川崎市の平間寺)に参詣した。出発したのがおそかったため、帰り道で日が暮れ、雨まで降り始めた。やむなく品川宿の紅屋という女郎屋に泊まることにした。

女郎は廻しを取っているのか、ほかの座敷に行ったまま、なかなか版木師のもとには来ない。夜もふけてから、やっと女がやってきた。版木師は内心、浮き立つ気持ちだったが、寝たふりをしていた。女は男が眠っているのをたしかめると、部屋の隅に置かれた行灯のそばに座った。
「ははん、これから、男に手紙でも書くのかな」
と、版木師は薄目をあけて観察していた。

女は行灯の油皿の火口を動かすと、そのまま顔を行灯のなかに差し込み、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして油を吸い、なめ始めた。版木師は全身に冷水を浴びせかけられたかのようにゾッとした。歌舞伎で化け猫が行灯の油をなめるのを観たことがある。
「猫又だろうか、古狸であろうか」
歯の根も合わず、布団のなかでガタガタふるえていた。

ややあって、女は何食わぬ顔で布団のなかにはいり、そっと寄り添った。もう、版木師はこらえ切れない。布団を飛び出すと
「帰る、帰る」
と叫んだ。若い者や、ほかの女郎も駆けつけ、懸命に引きとめた。
「いや、家の都合があり、どうしても八ツ(午前二時ころ)までに帰らねばならなかったのだが、つい、寝過ごしてしまった。これから帰る」
版木師は言い張り、帰り支度をした。あらためて行灯の明りで女を見ると、なかなかの美貌である。客あしらいも悪くない。この女が化け物かと思うと、いまさらながら背筋が寒くなった。

紅屋を飛び出したものの、雨が強く道もぬかるんでいる。化け物を見た直後だけに、ひとりで夜道を歩くのは怖い。けっきょく、版木師は品川宿の別の女郎屋にあがり、宿泊することにした。酒を呑み、ようやく人心地ついた。相手をしていた女郎と若い者は、版木師の顔色が青ざめ、小刻みにふるえているのを見て言った。
「どうかしましたか」
「じつは、紅屋から逃げ出してきた」
と、恐ろしげにいきさつを語った。女郎と若い者は笑い出す。
「おい、笑い事ではないぞ」
「油をなめましたか」
「知っているのか」
「それくらいのことは存じております。あれは化け物ではありません。ああいう癖の女なのです」
ふたりはニヤニヤしている。ようやく版木師は落ち着きを取り戻した。
「油をなめるのは、どういうわけか」
「わけは存じませんが、油を塗ると舌の荒れがよくなるとかで、ついつい油をなめるのだそうです。油を猪口にでもそそぎ、それをなめればよさそうなものですが、灯火で温まった油がうまいのだそうで、ああして行灯の火皿の油をなめるのです。品川では有名な女でございます」
「なんだ、そうだったのか。怖い眼にあったわい」
あとは大笑いとなった。

世の中には、こういう誤解はけっこう多いのではなかろうか。とくに男女間の、性に関する誤解だとなかなか面と向かって口にできないため、あげくは別れる、離婚するという事態につながることもある。男女間の機微はいまも昔も変わらない。