家族とは美しいものであり、「家族の団らん」は掛け替えのない楽しい時間――その一方で、家族が苦手だ、という方も少なくないのではないでしょうか。芥川賞作家・柳美里は、「家族よりも『家族のようなもの』の方が尊いのではないか」と語る。
 彼女が共に暮らしているパートナーのムラカミさんは、息子とは血の繫がりがない。つまり、家族ではなく「家族のようなもの」。柳美里が最新刊『人生にはやらなくていいことがある』で明かした自身の家族観とは。

「家族のようなもの」を作る

 

 結婚の在り方は、決して一つではありません。
 日本でも「別居婚」や「事実婚」のようなカップルも増えてきましたしね。
 わたし自身は、結婚に対しては10代の頃から否定的なイメージしか持てなかった。
「夫」「妻」「主人」「家内」「婿」「嫁」「舅」「姑」という役割を表す言葉にも、「イエ」の構成員に成ることを強いる結婚制度にも違和感を持っていました。
 わたしは、不安定な家庭で育ちました。
 わたしが小学校5年生の時に父と母は別れ、わたしは母と一緒に住むことになったんですが、母のもとには毎晩、愛人がやって来ました。
 その男性には妻子があるんですが、なんと、わたしたちは窓から彼の本宅が見えるマンションで暮らしていたんです。
 男性が会社からうちに立ち寄り、晩ごはんを食べて、母と一緒にお風呂に入って、寝て、明け方本宅に帰って行くわけですが、彼の車がうちのマンションの駐車場を出て、本宅の駐車場に入るのを、母はいつも窓から見送っていました。
 彼の奥さんが二人の子どもを連れて「主人を返せ! お父さんを返せ!」と怒鳴り込んで来たことも何度かあります。わたしの父と向こうの奥さんが一緒にやって来たこともありました。
 父と母も滅茶苦茶な家庭で育っています。
 ある日、なんの前触れもなく父親が出奔したり、母親と共に家出をしたりする流動的な家庭です。

 

 東由多加が、ガン(食道ガンが原発巣で、ステージⅣ)の告知を受けたのは、東京築地の国立がんセンター中央病院でした。二人でがんセンターの2階にある消化管内科の診察室に入ると、主治医となる室圭先生から「あなたは東さんとどのようなご関係ですか?」と問われました。
「家族のようなものです」と咄嗟に答えて、わたしは次の質問に身構え、緊張しました。
「家族のようなもの」とは、一体どのようなご関係ですか?と問い直されたら、長い説明が必要になるからです。
 自分が生まれた家族は父と母が作ったものですが、自分が持つ家族は自分で作ることができます。
 家族を作る時に、ある程度、「のようなもの」という「糊代」を残しておいた方がいいと思うのです。糊代があれば、時と場合によって、家族を作り変えやすくなる。
 どんな家族も時間が経てば構成は変わっていきます。子どもは大きくなれば家を出る。伴侶が病に倒れ、先に亡くなるかもしれない。犬や猫を家族として迎えるかもしれない。
 家族は不変ではないのです。
 ですから、家族はなるべく固定化しない方がいい。
 家族を一つの「芝居」と考えた場合、父親役、母親役、子役、それぞれ与えられた役を必死に演じ続ける。何十年も同じ役者が同じ舞台に出ずっぱりで、台本はなく、観客は誰もいない。それは非常に辛い「芝居」だと思うのです。
 どうしても駄目な場合は演目を変えたり、役者の具合が悪ければ出番を減らしたり、ミスキャストだったら代役に変更したり、ホームグラウンドだった小劇場に戻ったり、あるいは大劇場に進出したり、そして何よりも必要なのは、芝居を観に来てくれる観客です。
 役者が懸命に演じる芝居を観て、拍手を送ったりヤジを飛ばしたりしてくれる観客なのです。
 つまり、わたしは家庭に必要なのは「他者」だと思うのです。
「他者」が出入りする家庭の方が息苦しくないし、長続きする。
 息子が3歳の時、19歳のムラカミくんは鎌倉の家にやって来ました。息子にとっては年が離れたお兄さんみたいな存在です。実際に息子は彼のことを「お兄さん」と呼んでいます。


 息子はこのような物語を作って、わたしに語りました。
「ぼくって、一人っ子だと思ってたけど、二人兄弟だったんだね。お兄さんって、ママが若い頃に産んだ子どもなんでしょう? お兄さんは、ずうっとよそのおうちに預けられてたんだよね? よそのおうちでは、おかずもちょっとしか食べさせてもらえないんでしょう? お風呂にも入れてもらえないんじゃないの? かわいそうメ!だね」
 3人で食事に行くと、息子が彼を「お兄さん」と呼ぶものだから、店の人は確実に、二人をわたしの息子だと見るんですね。「じゃあ、お兄さんはこっちの席ね」なんて言われる。
 ムラカミくんと息子は仲良しです。わたしが海外出張で1ヶ月留守にすることになっても、二人と猫4匹とで仲良く暮らしているから、安心して仕事に出掛けられます。
 人間は、血の繋がりがなくても、「家族のようなもの」に成れる。
「家族」よりも「家族のようなもの」の方が尊いのではないかと、わたしは思うのです。