「米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番」を上梓、来日から40年日本を愛し、知り尽くしたケント・ギルバート氏が米国人の視点からみた東京裁判について論じていく。

 マッカーサーが、海軍厚木飛行場に降り立ったのは、一九四五(昭和二十)年八月三十日午後二時五分だった。元帥のために用意された旧型リンカーンに乗り込み、横浜のニュー・グランド・ホテルへ向かった。同乗したのは、コートニー・ホイットニー准将だった。後にGHQ民政局長となるが、元は弁護士で、マニラで開業していた時に知り合った。マッカーサーに金鉱会社の株を斡旋して、蓄財を助けたという。日本軍の侵攻で、マッカーサーと共にオーストラリアに逃げたが、大佐に任命されて、フィリピン・ゲリラを指導していたそうだ。日本占領にともない、マッカーサーは、ホイットニーの法律知識を高く評価し、准将に格上げした。

靖国神社にて

 ホテルについたマッカーサーは、幹部と共にステーキの夕食を終えると、部屋に対敵情報部長のエリオット・ソープ准将を呼んで「トウジョウを逮捕しろ」と命じた。
 笑ってしまうのは、ホイットニーには悪癖があったことだ。盗聴壁だった。マッカーサーとソープが室内で密談するのを、ホイットニーもドア越しに、聞き耳を立てて聞いていた。

 マッカーサーは、戦犯には二種類があると、そうソープに説明した。ひとつ目は、一般の戦時国際法違反。もうひとつは、「戦争を国家の政策の手段とした者」だった。ソープが、「政治的戦争犯罪人ということですか?」と、質問すると、マッカーサーは、「その筆頭がジェネラル・トウジョウだ」と、そう答えたという。

 戦時の国家の政治的リーダーを、「戦争犯罪人」と、することに、ソープは困惑したが、「同種の犯罪者のリストを至急作成せよ」と、いうのが、マッカーサーの命令だった
 ソープは、当時のことを回想して、次のように記述している。

「敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義、その他の理由だけで、即座に射殺したい、一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害を受けて、怒りに燃える偏見に満ちた、連合国の国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか、思えなかった」

 「政治的戦争犯罪人」のリスト作成は、その基準となる、法そのものがないので、混迷を極めた。マッカーサーからの命令を受けた、翌日の八月三十一日、ソープは、二人の中佐と一人の少佐に、「政治的戦争犯罪人」の人選を命じた。
 命令を受けた二人の佐官たちも、日本の政界については、まったく無知だった。仕方なく、紳士録や、新聞のスクラップをつかって、それらしい人物を選んだ。
 九月九日、マッカーサーは、ソープを呼びつけ、「命令が十日も実行されていない。四十八時間以内に、第一次戦犯リストを提出し、トウジョウ将軍を逮捕せよ」と、檄を飛ばした。それを受けて、一九二七(昭和二)年以降の日本の閣僚、中将以上の陸海軍軍人、三井、住友、三菱、安田の四大財閥の幹部、高級官僚、そして玄洋社や、黒竜会などの右翼団体の幹部のリストが作成された。
 ソープは、最終的に開戦時の東條内閣の閣僚と、さらに、フィリピンに於ける残虐行為の責任者として、本間中将ら十四名、元フィリピン大統領ホセ・ラウエル、ビルマ独立義勇軍のアウンサン少将、駐日ドイツ公使ハインリッヒ・スターマーなど、日本に協力した外国人十五名の合計三十九名を、戦犯第一号としてマッカーサーに提出した。
 マッカーサーは、米国国務省に報告し、同意を得た。そこで、ソープは「連合国軍最高司令官は、以下の者を米軍拘束下に置くよう命令した」と、新聞への発表文を用意した。
  すると、AP記者の記事から東條が用賀の自宅にいることが判明したので、十一日に東條を逮捕し、その後に三十八名を順次逮捕することにした。
 こうして、いわゆる「A級戦犯」容疑者だけでも、第二次、第三次と容疑者逮捕が続き、最終的には、百人以上に達した。そして、当初は三十名を選定していたが、被告席の物理的な、スペースの都合によって、二十八名が裁判の被告とされた。最高刑として、死刑を科す可能性がある被告人を、選び出す作業だというのに、驚くべきいい加減さだった。
 そもそも、裁判所というものは、勝手に設置することができない。それはそうだろう。誰でも勝手に裁判所を設置して、裁判ができるようになったら、世の中は、勝手に都合のいいように「裁判」を行い、「罪」を、確定できることになってしまう。それは「私刑=リンチ」であって、「裁判」ではない。
 さらに言えば、国際裁判となれば、その判事は、国際法に通じた専門家であるべきだ。しかし東京裁判では、そうした判事の資格も全く無視された。つまり、指名された裁く側の判事たちには、国際裁判を担うだけの知識や、資格がなかったのだ。唯一の例外が、国際法に通じたインドのラダ・ビノード・パル博士だった。