井伊家との関係の改善に努めた太原崇孚

 直虎が誕生した頃と言われる天正5年(1577)、この年、駿河・遠江を守護

直虎が過ごした井伊谷城趾

として支配した今川氏に、兄弟による家督戦争が起き、これに勝利した義元が第九代宗主となった。
 
 この義元の幼い時から僧門の師であり、戦いでは軍師として活躍した太原
崇孚(雪斎)が、義元政権で政治・外交・軍事面の全般にわたって指導的な役割を果たした。
 
 この崇孚は敵対関係にあった甲斐の武田氏との関係改善をはかり、信玄の姉を義元の正室に迎えた。これにより従来、友好的だった東隣の北条氏との関係は悪くなったが、ともかく北からの武田の脅威を除き、三河に兵力を集中させて、三河を完全に掌中におさめる作戦に出た。
 
 その戦略の中で、東三河に接する井伊家に着目した。長年にわたる占領状態を解消して、今川の家臣として正当に評価し、国人領主として独立権を認め、今川氏の軍役を担う有力国人として遇することが、今川氏の利益に合致するとみたのである。

 井伊家としても、今川に占領されて、領国の自治もままならない状況は改善したかった。

 ここに両者の思惑が一致し、天文八年(一五三九) 頃、三岳城は返還され、今川駐留軍は井伊谷から去った。
 
 井伊谷城にやっと笑顔が戻り、両親のもと、居館本丸で直虎はすくすく育つことになる。
 
 だが、井伊家は完全に今川氏の影響力を領内から排除できたわけではなかった。井伊家の内政を監視するために、今川氏は小野一族を世襲の家老として井伊谷に送り込んできたのである。井伊家の内情はこの小野氏を通じて逐一、駿河にもたらされた。

 実はそれ以前から、今川氏は自分の息のかかった者を井伊谷に送り込んで、井伊家を監視していた。それが直虎の母の実家である新野氏だった。
 
 新野氏は遠州城東郡新野郷(静岡県御前崎市新野) の三千石の地頭で、今川一族だった。一説によれば今川了俊の五男が新野を名乗っていて、その子孫とされる。

 直虎の母の兄を新野左馬助親矩といい、早い時期に井伊家に派遣された監視役だった。

 しかし彼は井伊家の境遇に同情したのか、井伊家の有力分家である奥山氏の娘と結婚し、妹も宗家・直盛の妻になって、今川氏の圧力を防ぐ盾となり、井伊家を守る姿勢を貫くのだ。
 
 このために今川氏は新たに井伊家に小野氏を送り込み、厳しく監視させたのである。
 
悲劇の始まりは祖父直宗の戦死

 直虎の少女期、井伊谷に平和が訪れる一方で、井伊家は井伊谷を中心にした引佐郡、今でいえば奥琵琶湖北方の浜松市北区の大部分(東は浜松市天龍区と接し、西と北側が愛知県新城市に接する山間部) を所領し、その領民に軍役を課し、またそこから上がる年貢をもって、戦国大名・今川の旗本に組み込まれ、今川軍の有力武将として活躍する責務を負わされた。

 こうした中で、井伊家の悲劇が次々に起って、直虎の人生を翻弄して行く。

 その序章は直虎の祖父直宗の戦死だった。

 井伊家が今川氏の臣下に組み込まれてまだそれほど年月が経っていなかった。それなのに井伊家の宗主が討ち死にしたのである。

 田原城(愛知県田原市) は渥美半島にあって、戸田康光が威を振るい、現在の愛知県豊橋市方面に進出して三河湾一帯の支配をめざし、今川氏の圧迫を受けた。今川氏の戸田氏への本格的な攻撃は、天文十五年の今橋城(後の吉田城・豊橋市) の攻防、その翌年の田原城の戦いで、康光は討ち死にして城は今川氏に帰した。

 だが直宗はその緒戦段階で、田原城攻めを命じられて、伏兵として潜んでいた野武士集団に襲撃され、数多くの家臣とともに戦死したとされる。

 ただ時期や場所に異説があって、天文十五年の今橋城の攻防で、今橋ヤトイ場で討ち死にしたなど、いくつかの説があるが、嫡子・直盛の家督相続の状況から、天文十一年の戦死が妥当と思われる。

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