第32回 
まとめるな、まとまるな

 

まとめたがる人たち

 最近のネットの特徴の一つでもあり、また、年末になると自然増殖するのが「まとめ」なるもの。
 コンテンツとして、需要があるからやっているのかどうかはわからないが、とにかく、自分から新たに生み出すのではなく、現状を取りまとめるだけの作業である。調査ならばまだ労力が必要だが、ただ個人の好みを「ベストテン」みたいに集計している馬鹿な内容も数多い。
 マスコミが、これをする傾向にある。新たに取材をする必要がない。既存のコンテンツから、良いところを引っ張り出してくるだけだ。面白いものを集めるのだから、つまらないものにはなりにくい。コストパフォーマンスに優れている。マスコミは商売だから、これをやらないわけにはいかないのだろう。
 しかし、それを見て、個人でやって自己満足している光景は、少々痛い、と感じるが、いかがか。
 おそらく、ネット時代の子供たちは、学校の宿題というか、休みの自由研究などでも、ネットからただ集めてくるだけの「調査」をして、それが研究だと思い込むのだろう。
 研究論文には、最初に「既往の研究」なる章がある。そのテーマの研究の動向を取りまとめた内容だ。これをしないと、研究が始められない。だが、この部分は研究ではない。研究の現状を知ることが、スタート地点であり、そこから研究者は自分の道を切り開くのである。これを「考える」という。
 つまり、まとめるだけの行為は、なにも「考えていない」のだ。考えるために、スタート地点に立って、走り出そうとしている姿勢である。
 考えていないから、オリジナリティもない。「着眼点」くらいは評価できるけれど、それはただ目を向けただけにすぎない。そこから観察することも、まだ始まっていない。
 一番感じるところは、とにかく多くの人が考えない人生を送っているのだな、ということである。
 けっして最悪ではない。平和だし、省エネである。そういう消費だけの人生も、あって良いだろう。ただ、少なくとも、楽しさはない、と僕は知っている。僕が「考える」理由は、この一点だけだ。

 

まとまりたがる人たち

 なにかというと、集まりたがる人も沢山いる。本来、人が集まるのは、一人ではできないようなプロジェクトに挑むことが目的だっただろう。個人の能力には限界がある。だから、力を合わせて大きなものを作ってきた。人間社会の基本的かつ代表的な方針の一つといえる。
 しかし、今日、それらはほとんどの仕事に既に取り込まれている。一方で、たとえば、伝統的な祭りなどは、何のための集いなのかは曖昧になりつつある。五穀豊穣を祈っていても、誰も本当に効果があるとは信じていないだろう(稀に信じている人もいるとは思うけれど)。
 忘年会や新年会の類も、目的は不明である(酒が飲みたいならば、一人で飲めば良い)。なんとなく自分たちが勢力を持っていると錯覚したいだけの気分イベントといえる。
 そういった集会が好きな人は、出席しない人を仲間外れだと思い、「あいつは寂しい奴だ」と非難するかもしれない。逆に、集会が嫌いな人は、「馬鹿が集まっている」くらいにしか思っていない。以前は、前者が多数派だったが、この頃は、少数派が伸びている気もする。いかがだろうか。あなたはどちら?
 いずれにしても、自分の派が正しいと思い込むことが馬鹿である。どちらでも良い。集まりたければ集まれば良いし、集まりたくなければ一人で楽しめば良い。否、一人とは限らない、二人もありか……。
 大事なことは、反対派のことを意識しすぎないことだろう。相手を非難しないと自分たちのアイデンティティが確保できないというのは、それこそ非常に危うい状況といえる。声を上げて、「○○反対!」と叫んでいる人たちは、その声の大きさだけ、自分たちの立場が危ういことに危機感を抱いている。だから、叫ばざるをえないのだ。
 たとえ少数派であっても、自分の信じる道が正しいと思う人は、叫ぶことはないし、相手を非難することもない。その必要がないからだ。

 

年末年始ですが、なにか?

 森家では、特になにもしない。初詣などしたことがない。
 僕は神様の能力を信じているので、わざわざ出かけていかなくても、こちらの事情も願いも、すべてお見通しだと認識しているからだ。
 また、神様を信じているから、厄年だろうが、災いがあろうが、不信心で罰が当たったとも考えないから、一切の儀式をしない。年末年始に仕事を休んだことは一度もない。神様は常に我とともにある。

 

外は氷点下10℃以下だが、室内は床暖房のため常時20℃。このバスはラジコンで、家の中を走り回っている。