今年も8月15日がやってきました。先の大戦関連のテレビ番組などが増える時期ですが、一番の疑問は「日本はなぜアメリカと戦ったのか?」ではないでしょうか?
動画製作者・KAZUYAさんのベストセラー『日本人の知っておくべき「戦争」の話』から、「日米開戦の謎」を3回に渡って検証してみましょう。
連載第3回目、最後のテーマは、「石油は血の一滴」です。

「石油は血の一滴」とも呼ばれます。資源の乏しい日本にとって、石油の存在は重要でした。いくら軍備があっても、燃料がなければ動きませんし、国内の産業もストップしてしまいます。ですから石油が入ってこないなどということになれば日本の終わりといっても過言ではないのです。


 対米交渉の中での謎の南部仏印進駐。これによってアメリカは1941年(昭和16)7月、「石油全面禁輸」という禁断のカードを切りました。
「日本をbaby(あやす)する時期は終わった」とルーズベルトは11月に述べていますが、資源なき国の資源を止めるとどうなるか? もはや南方へ出ていかざるを得ないとルーズベルトはわかっていたのです。


 日本に二度にわたって訪れ調査をし、戦後GHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働基本法の策定に関わったヘレン・ミアーズは著書「アメリカの鏡・日本」で次のように書いています。

「パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んで仕掛けられた『一方的攻撃』であるというが、この論理では日本を公正に罰することはできない。なぜなら、私たちの公式記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済戦争への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。原因は、一九四一年七月二十五日にアメリカ、イギリス、オランダが打ち出した「凍結」令である。三国は自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係をすべて断絶した。日本は輸入必需品の八〇パーセントを「凍結」地域に頼っていたから、三国の行動は日中戦争の泥沼化だけでなく、国内経済の窒息を意味するものだった」

 

「戦争はしない」と言っていたルーズベルトでしたが、実はその裏でアメリカから日本への先制攻撃の計画があったことも明らかになっています。
 1940年(昭和15)11月以降、ルーズベルトは閣僚や軍部、支那らで、支那から日本への爆撃計画を立てていました。当初棚上げこの計画ですが、1941年(昭和16)春以降に再度検討されます。このとき爆撃機で日本本土を直接空爆するプランを推進し、計画書にルーズベルトがサインしているのです。ちなみに、計画はソ連のスパイである大統領補佐官ロークリン・カリーの提案というのが滑稽です。


 ルーズベルトも日本を敵視、日本もアメリカを敵視しています。ソ連としては日米が戦ってくれれば、日米ともに消耗してソ連に目が行かなくなります。混乱が続けば共産主義革命が成し遂げられます。願ったり叶ったりです。
 石油の禁輸によって一気に緊張感が高まります。石油は備蓄していましたが、大体平時で2年、戦時で半年という量です。交渉は続けていくのですが、続けていく過程でも当然石油の備蓄は減っていくわけです。減っていけば空母も飛行機も動かなくなりますし、戦力的にも幅が狭まります。


「このままではジリ貧」と、近衛内閣は9月6日の御前会議(天皇臨席のもと重要な国策を決めるための会議のこと)で帝国国策遂行要領を決定します。すなわち対米英蘭開戦準備を10月下旬に終わらせ、10月上旬に日米交渉がまとまらなければ開戦する方針のことです。
 御前会議で天皇は発言しないことが通例となっています。しかしこのとき昭和天皇は、明治天皇の御製を読み上げます。

四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん
(四方の海はみな同胞と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう)

 これが偽らざる昭和天皇の御心だったのでしょう。
 戦前の日本は天皇の権力が強くて云々かんぬんと言われることもありますが、基本的に日本は大日本帝国憲法のもとでの立憲君主制であり、専制君主制ではなかったのです。つまり臣下が決めたことには基本的にNOとは言わないのです。決定が覆ることはありません。


 帝国国策遂行要領が決まり、交渉も残り僅かとなるのですが、10月17日に近衛内閣は総辞職してしまいます。最悪な時に組閣を命じられるのは東条英機です。それまで東條は強硬に主戦論を唱えていました。むしろ強硬論で近衛を追求するくらいだったのです。ですからまさか自分に大命が降るとは思ってもいなく、「え!?俺!?」と驚愕したと言います。
 さらに、「9月6日の帝国国策遂行要領にとらわれることなく」という昭和天皇の意思が伝えられます。つまり、開戦回避のための主戦論を唱える軍を抑えられるのは東條しかいないだろうということで大命が下ったのです。それまで主戦論を展開していた東條ですが、天皇の意思とあらば厳格に実行するというのが東条英機でした。


 東條はその意思のもとに、開戦回避へ向けて奔走します。日米交渉の期限を12月まで延ばし、外相には対米協調派の東郷茂徳を起用し自体の打開をはかります。日米の懸案だった支那からの撤兵については、段階的に治安確保しつつ進めていく甲案、乙案という二つの妥協案をアメリカに提示する方法をとりました。日本としては「譲歩に譲歩を重ね、ついに譲歩の極に達した」ものです。
 こうした日本としてはものすごい譲歩をした案を持って行きますが、日本は暗号を解読されていたため、事前にこの案はばれていたのです。11月7日に甲案を、20日には乙案をそれぞれアメリカに提示しますが、アメリカは突っぱねます。


 アメリカは交渉する気がなかったのです。すべては日本に引き金を引かせるため。11月26日、アメリカ国務長官のコーデル・ハルは、いわゆる「ハル・ノート」を日本に提示してきます。
 これは日本を驚愕させました。譲歩の極みに達した甲案、乙案など完全に無視で、仏印や支那から即時完全撤兵やそれまで話していなかったことをいきなり入れてくるなど、これまでの交渉はなんだったのかという内容です。
 ハル・ノートを起草したのはハリー・デクスター・ホワイトです。ホワイトはルーズベルトが信頼していたモーゲンソー財務長官の1941年は筆頭次官補でした。そんなホワイト、実はソ連のスパイだったのです。ヴェノナ文書から明らかになっているのですが、他にもロークリン・カリー大統領補佐官などソ連のスパイがおり、アメリカも相当侵食されていました。
「ホワイトかと思ったら、実はレッドだった」という、笑えないジョークです。ソ連から考えてみると、日米交渉がうまくいっては困るのです。1941年当時、ドイツの破竹の進撃が続いてソ連自体が滅亡寸前まで追い込まれていました。だからこそ、万が一日米が和解してしまうと、国境を接するソ連としては危険です。


 日本はドイツがソ連を破った場合ソ連にも当たることを考え、「関東軍特種演習(関特演)」を7月に実施していました。70万人を超える大軍勢を満州北部に集結させ演習を行います。これにはスターリンもビビってしまいます。この時点ではばれていませんが、ノモンハンで大ダメージを受けていますし、日本軍が恐ろしかったのです。
 そんな状況ですからなんとか日米を戦わせて、さらにアメリカから武器、資金の供与を期待して工作を行っていたのです。その一環がハル・ノートでした。日本はハル・ノートを「最後通牒」と受け取ります。<了>

 

 


<『日本人が知っておくべき「戦争」の話』(KAZUYA/著)より抜粋>