第33回 
「自分を信じろ」は正しいのか?

 

自分は絶対に間違える

 

 僕は、二十四歳で地方の国立大学の助手(現在の助教)に就職し、ちょうど、同じ四月に結婚をした。そのとき同僚たちがお祝いにくれたのがパソコンだった。また、就職先は、学科が創設されたばかりで、研究室にもまだ設備がまるで整っていなかったのだが、何故かパソコンが一台あった。ちょうど、NECの8800シリーズが出ていた頃だから、まだ8ビットの時代である。
 それまで、コンピュータというのは、計算機センタで使うマシンのことを示す言葉だったのに、急に小さくなって自分の目の前に置かれるようになったのである。
 こんな環境だったから、仕事場でもまた家庭でも、ずっとプログラムを作った。どうしてかというと、まだ市販のソフトはなく、自分でプログラムしないと、なんの役にも立たない代物だったのだ。ゲームもすべて自分でプログラムしたし、表計算ソフトも、グラフィック処理ソフトもすべて一から考えて自作した。研究に役立つ演算プログラムなど、ゲームに比べたら簡単この上ない、というのが、当時の印象だった。
 プログラミングをした経験のある人は誰もが知っていることだが、入念にプログラムを作っても、走らせてみると必ずエラーが出るものだ。これは当たり前のことで、プログラムが一通り書き上がった時点が出発点ともいえる。走らせては結果を観察し、エラーを取り除き、間違いを正していくプロセス(デバッグと言った)が延々と続く。
 どうしてこんな間違いをするのか、何故思ったとおりに動かないのか、こんな状況は予想もしなかった、という驚きの連続となる。
 ここで学ぶことは、「人間は絶対にミスをする」という現実である。どんなに確信があって、いかに慎重に熟考したうえであっても、絶対に間違いがある。コンピュータが予想外のとんちんかんな動作をしても、それはすべて、人間が間違ったプログラムをしたからなのだ。
 「自分は絶対に間違える」という信念こそが、エンジニアの基本的な姿勢である。これは、おそらくエンジニアでなくても、広く一般に通用する精神だろう。

 

自分の信じる道を貫け?

 

 自分を信じない。絶対にミスをする。そう考えていれば、トラブルの多くは想定内となる。異変があっても慌てず、処理ができるし、また、そうならないための対策を何重にも準備することができるだろう。
 世間では、「自分を信じていけ」という言葉がよく聞かれるみたいだが、自分を信じて失敗することは数多い。これを「過信」という。「自分の相撲を取るだけです」と言って負けた力士は、「自分の相撲」が悪かったことを反省するしかない。
 自分の能力を信じないからこそ、対策が打てるのだ。自分の持っている商品は絶対に良いもので、売れないのはPRが足りないだけだ、と信じる人は、商売には向かない。それは、芸術家の驕(おご)りに近いものだ。
 自分が良いと思うことを貫け、という教えは、趣味の道ならば正しい。しかし、相手があるビジネスでは、自分が正しいかどうかではなく、相手が何を求めているのか、を知る必要があるだろう。自分が信じるものに価値があるのではなく、他者が求めるものに価値が生じる、というのが商売の原則だからである。
 スポーツも相手がある。勝ち負けがある。そうなると、自分の相撲は、相手によって変えていかなければならないはずだ。
 もし、小説家が芸術家ならば、自分の好きなものを書く、書きたいものを書くのが正しい。しかし、小説家が仕事ならば、求められるものを書く、が正しいだろう。それが、その道における基本的な姿勢である。
 現在の子供たちは、きっと親からも先生からも、「自分のやりたいことをしなさい」「信じる道を進みなさい」と教えられている。これは、豊かな社会の「ゆとり」といえる。
 だが、現実はそうではない。みんなが芸術家になれるわけではないのだ。否、たとえ芸術家であっても、昨今はビジネスセンスが求められるにちがいない。

 

雪の季節

 

 日本の大寒波がニュースになっていた。フランスもロシアもそうだ。温暖化するほど、気象は荒れる。それなのに、誰も火力発電所に反対しないのはどうしてなのだろう?
 温暖化を棚上げして、僕の庭園鉄道は年中無休である。雪が降ったら、除雪車が出動して、その日のうちに全線復旧。
 真っ白な森林の中を一人走る。とても寒いけれど、それを我慢する価値がある。スイスの氷河特急くらい美しい。このときだけは、自分を信じても良い、と思うのである。

 

昨年開通した木造橋を渡る列車。雪は滅多に降らないが、一度降れば、四月まで解けない。