今回徘徊する尼崎は兵庫県下ですが、大阪・梅田またはなんばから阪神電車ですぐです。

 大阪冬の陣直前には、堺で豊臣勢と戦い敗れた片桐且元の兵が尼崎に逃れていますが、彼らは茨木から豊臣方の勢力圏である大坂城周辺を回避迂回して尼崎に出、ここから船で堺へおもむき、また船で戻ってくるというルートをとりました。彼らを追って豊臣勢も尼崎に上陸、片桐兵(100人とも300人とも)は殲滅されたといいます。

 これに先立って徳川家康は外孫で姫路城主の池田利隆に「尼崎は大事の所」と尼崎城主・建部政長と協力して守備を固めるよう指示したのですが、利隆らの予想をうわまわる数の豊臣勢が「中入」(長距離迂回攻撃のこと)したために、ただ指をくわえて眺めているだけとなってしまいました(『大坂御陣覚書』ほか)。

 まぁそんなわけで戦国時代の総決算とも言える大坂の陣冒頭で注目を浴びた尼崎。この地は何かと戦国時代関係の史跡がそこかしこに残っています。

 

 まず、尼崎のひとつ手前、大物(だいもつ)で下車しましょう。駅から線路沿いに北側を西に進むと、すぐに「大物崩れ戦跡」の石碑が。
 
 これは戦国時代の初め、室町幕府管領・細川高国らの軍勢2万が、三好元長ら堺公方・足利義維の軍勢1万に大敗を喫し、一帯が死体で埋まり塚のように盛り上るほどの惨状を呈したといいます。

 そこから阪神電車の高架をくぐって南東に向かうと、源義経が弁慶とともに兄・源頼朝の追ってから逃れて身を潜めたという大物主神社(おおものぬしじんじゃ)があります。ここは大物城=戦国期尼崎城の敷地の中だったと言われますが、それを偲ぶよすがは何もありません。

 

 大物主神は水神の一面を持ち、「讃岐の金比羅さん」で知られるように海上を通行する者たちの守り神でもありますから、大物一帯は尼崎の水運拠点であり、その経済活動を支配するための城が大物城だったのでしょう。織田信長の時代には荒木村重がここを支城とし、信長に背いて立て籠もった有岡(伊丹)城から落ち延びたことで有名です。

 天正2年(1574)、村重は長遠寺(じょうおんじ)という日蓮宗のお寺に税の免除などの特権や堀の整備などを立て続けに付与・指示しました。今は寺町にある長遠寺ですが、当時は大物城の南(現在の東本町)にあり、西側には市場も開かれ湊の商取り引きがおこなわれていたことから、大物城の南の守りと経済関係の出先機関として活用しようと考えたのでしょう。