歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。

今回は、肥後細川家の祖であり、歌人としても名高い、細川藤孝(幽斎)を鑑定する。

細川 藤孝(1534-1610)
生年月日:天文3年4月22日(和暦)
西暦1534年6月3日(グレゴリオ暦)

 

それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。
日柱の干支(かんし):「戊申」(つちのえさる)
「秋」の「山」を表す。「秋」の「山」から想像されるのは、紅葉。登山が好きな人もそうでない人も、その美しい情景を見ようと大勢の人たちが集まる。藤孝もそのイメージ。大勢の人に頼られ、慕われたのであろう。「戊」の人は、山のように物事に動じず悠然な態度が取れる。また、紅葉からイメージされるように感受性が豊かで色彩感覚に優れている。藤孝は戦国の世にあって、文芸に心を寄せ、その教養によって重んじられていた。同様に「戊申」を持つ芸能人として、木村拓哉や中村獅童、嵐の櫻井翔がいる。

次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。

・主星「偏印(へんいん)」:
ひらめき型の頭のよさ。知的好奇心旺盛であるが、飽きっぽいところもある。まさに、藤孝はひらめき、アイディアが豊富な人物。藤孝は、室町幕府第13代・足利義輝に仕え、その後15代義昭の擁立に尽力、後に織田信長に従い、本能寺の変後は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重宝され、最終的に肥後細川家の礎となっている。このように次々と主人を変え天下人に仕えたのは、精緻な政治感覚、時代を読む力により一度も選択を誤らなかったからであるといえる。例えば、藤孝は明智光秀と親友であり、親戚であったが(長男忠興に光秀の3女ガラシャが嫁いでいる)、本能寺の変後、光秀からの誘いに応じることはなかった。

・自星「食神(しょくじん)」:
おおらかで明るい遊び好きの星。子ども好きの星でもある。
まさに、藤孝は円満穏やかで、怒ったり、不機嫌な顔を見せたりするのは稀であったと伝わる。また、藤孝の子煩悩ぶりは戦国の世でも有名で、息子、忠興に対してただガツンと叱るのではなく、和歌やたとえ歌を用いて諭していたのだとか。ある日、言いつけを守らなかった忠興に対し、簡単な訓戒とともに、和歌を渡した。「いひ出し とりかへされぬ ものなれば 言の葉残せ 腹はたつとも」藤孝のおおらかさ、子煩悩ぶりとともに、遊び心も感じるエピソードである。
藤孝の文化人ぶりはよく知られるところであるが、戦いの日々の最中もそこ、ここで和歌を詠んでいる。毛利勢との対陣で播磨へ出征した際は、加古川の刀田山鶴山寺(とたさんかくりんじ)にて「高砂の 松の思はむ 心にも 猶恥やらぬ 言の葉にして」を、明石では「あかし潟 かたふく月も 行舟も あかぬ別れに 嶋かくれつつ」等を詠んでいる。戦の中にあっても遊び心を忘れることはなかったのだろう。

・「偏官(へんかん)」:
思い立ったら即行動のガツガツタイプ。攻撃的、行動的な星。
藤孝は武功を挙げた武将としてもよく知られる。武功にも様々な種類がある。①刀を交え槍を合わせ敵と組み合って勝ち得る個人的武功②一軍の長としてその進退よろしきを得て立てる武功③直接戦わず謀によって戦局を支配する武功。一人ですべてを兼ね備えるのは難しいが、桑田(1996)によると、藤孝はその全てに才を発揮していたという。そのうち、「偏官」にあたるのは、①個人的武功であろう。藤孝の武功として最初のものは、天文18(1549)年、時の将軍・足利義輝に、三好長慶が細川氏綱を将として京都乱入を謀った際、16歳で敵の侍の首級を得、戦功を立てている。その他にも多くの首級を得て感状を賜ったという記録は多く、行動的、攻撃的な頼もしい荒武者であったのだろう。
また、藤孝の力が強かったことは「戴恩記」にも記載されており、老年になってからのある日、織田常真(信長の次男)の屋敷でお能に出かけた際、門番が竹の杭を突き出して通すまいとした。藤孝はすかさずその杭と共に門番の手を握ってねじ上げたところ、門番の骨が砕けてしまったというのである。力が強く、時折攻撃的な人物だったのであろうか?

・「劫財(ごうざい)」:
欲しいものはどんな手を使っても手にいれたい、向上心が強い星。組織をまとめ人を動かすことが得意。
大きな目標を達成するために、社交的に振る舞うことができるのもこの星の特徴で、時の天下人だけでなく、要人を押さえ組織を上手に作りあげていたことだろう。
また、先に述べた、武功の種類②一軍の長として立てる武功においては、さらに目を見張るところがあったようである。信長の下に就いてからは、戦に次ぐ戦であったが、殊に丹波丹後の戦では、短期間で31城を陥れており、これは藤孝の機敏な強襲戦法、統率力の強さを物語っている。

・「印綬(いんじゅ)」:
習得本能が強く、とっても頭のよい星。冷静に判断を下すことができ、研究者にも向いている。教養人としての活躍で知られる藤孝は、幼いころから本を読み漁っていたのだとか。晩年には有職故実の事などを研究し、文雅の余生を送ったと伝わる。

・「建禄(けんろく)」
王子様の星。エネルギーが強く、安定性がある。努力を惜しまず前進することができ、誰かが応援してくれる。男性、女性、どちらを対象にしても成功する。

・「帝旺(ていおう)」
王様の星。頑固でわがままだが、抜群の統率力を持つ。カリスマ性がある。

⇒「建禄」「帝旺」は「冠帯(かんたい)」と合わせ、「身強の星(みきょうのほし)」と呼ばれ、運勢エネルギーが強い為、ビジネスなどで成功しやすい。これまで藤孝を含め7名の武将を鑑定してきたが、「身強の星」を2つ持っている武将は、信長のみである。どれほどエネルギーの強い人物であったかは明白だろう。藤孝は戦国動乱の世に、信長、秀吉、家康と肩を並べて天下を掌握できるほど大きな人物とはいえず、当時で言うと三流だったのかもしれない。しかし、時代や状況が変われば、天下を取りうる人物だったのでは?と考える。

・「病(びょう)」
夢や空想の世界で生きるロマンチスト。神秘的なものを好み、芸術に長けているが、優しすぎて実行力に欠ける面がある。
この星を持っているからこそ、藤孝は文化人としての才を発揮したともいえる。藤孝の文化人ぶりは、現代に伝わるところであり、和歌、茶道、蹴鞠、連歌、囲碁、料理に造詣が深く、当代随一の教養人であった。

今回の鑑定結果について、細川家のご親戚(細川護熙元総理とはとこ)であり、世界でご活躍中のチェリスト、水谷川優子(みやがわゆうこ)氏に見解を伺った。「細川家は力だけでなく、先を読む力、生き抜く力があるとから前々感じており、その祖となった藤孝の鑑定結果はとても理解できる。藤孝はついていって大丈夫!と思わせる何かを持っていたのだろう。天下が取れるのに敢えて取らずに周りを見て行動していたのは、自分の分をわきまえていたのではないか?」

細川家のご親戚(細川護熙元総理とはとこ)のチェリスト水谷川優子さん(右)と筆者。

徳川氏の時代になってからは老年期に入り、武人として目覚ましい活躍は見られなかったが、家康も藤孝に対し相当の礼を尽くしていたようである。77歳で京都三条車屋町の自邸においてその生涯を閉じた時(老衰と伝わる)、時の将軍・秀忠から弔問の使が寄せられ、と同時に秀忠も3日間、囲碁や将棋をやめて弔意を表したとのことである。天下を取れる力があったのに、敢えて取らずに徳を積み続けた藤孝。血で血を洗う戦国の世で、藤孝が見出した生き方だったのだろう。

■四柱推命とは?
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。
ここでは、「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いてグレゴリオ暦に換算し鑑定している。また、生まれた年・月・日のみ時間は考慮していない。

■用語説明
日柱の干支:その人の本質を表す重要な部分
主星(しゅせい):月柱の蔵干通変星で、その人を表す最も重要な星。主に仕事運を表す。
自星(じせい):日柱の蔵干通変星で、その人のプライベートな部分の性格を表す重要な星。

【参考文献】
「細川幽斎」桑田忠親  講談社(1996)
「細川三代―幽斎・三斎・忠利」 春名 徹 藤原書店(2010)
関ケ原ブログ 2006年7月17日http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50672446.html