松代城大手門

今回と次回では、「天災と城主」と題し、城にまつわる裏話を紹介したい。

弘化4年(1847)3月24日午後10時過ぎ、善光寺地震が発生したとき、松代城主の真田幸貫は、城内にいた。幸貫の身に危険は及ばなかったが、城内の塀や石垣が崩れ、櫓や城門の一部が損壊した。

また、善光寺地震では、土砂崩れが発生して千曲川の支流である犀川を堰きとめてしまう。その結果、農村が水没して甚大な被害を受けるとともに、約40キロもの細長い巨大湖が出現した。松代藩の重臣たちは、巨大湖の堰が決壊すれば、松代城までも呑み込まれる危険も考慮されたことから、藩主の幸貫に安全な場所への避難を勧めた。

すると、幸貫は「私が避難すれば、民の不安は増すだけだろう」といって、松代城から動くことはなかった。

上の写真は松代城の大手門。題名は「城の搦め手」であっても大手門の写真も登場する。

松代藩主の真田幸貫は、寛政の改革の推進者として名高い松平定信の次男として生まれ、松代藩真田家の養子に迎えられた。

幸貫は、33歳で藩主に就任すると、藩政改革を積極的に推進。幸貫の改革路線は高く評価され、40歳で老中に就任。水野忠邦のもとで、海防掛(国防担当)として手腕を発揮するが地震が起きる3年前、病気を理由に老中の座から離れていた。

幸貫は、巨大湖の出現という非常事態に直面すると、安全な高所に避難していた農民たちを呼び寄せ、被害を最小限に抑えるための土木作業に従事させた。

もしも、幸貫が松代城から避難していたのなら、領民たちは危険な災害現場で働くことはなかったに違いない。地震発生から半月以上が過ぎた4月13日の昼過ぎ、ついに堰が崩れ、最大で高さ約20メートルにも及ぶ水流が巨大湖から押し寄せた。水流は、犀川から千曲川を沿って、1日がかりで河口の新潟まで達した。その一方、被害を抑えるための土木工事の成果と、避難指示が徹底していたことから、死者は20人程度だった。

藩主幸貫が不退転の決意を示し、領民とともに災害に立ち向かったからこそ、被害を最小限に抑えられることができたと評価できよう。