第34回 
自分が信じるものの価値は?


自分が信じる道は正しいか?

 

 「自分が信じる道」を、ときどきは疑った方が良い。もしかしたら、間違っているのではないか、という疑問を常に持っていた方が安全である。どうも、「信じる道」なんて言われると、それはもう絶対に正しいものだ、と思い込んでしまう。演歌の世界になってしまうのだ。
 特にこの頃では、「自分を信じろ」と言いたがる。なんか、自信過剰の子供を育てているみたいだ。それも、本当の自信、それぞれの個性に適した分野での自信ならばまだしも、とにかく、なんでも頑張って突き進めば、きっと成功するのだ、という魔法のような効果を自信に込めようとしている。
 「絶対に私は勝つ」とか、「俺は絶対に失敗しない」とか、そういう台詞を、ドラマ以外でもし本気で言う人間がいたら、あまり近づかない方がよろしいだろう。
 そんな人は信頼がおけない。信頼とは、そういった強気の発言によって成立するものではない。とにかく心配して、悲観して、「大丈夫だろうか?」「本当に上手くいくのか?」という疑問を克服する以外にない。あらゆる対策を練って、それでも足りないと感じる精神こそが、真の信頼を生み出す。信頼できるのは、最後の最後まで「運を天に任せない」人間であり、このタイプの人が、結果として、成功する人間として残るのだろう。
 一言でいえば、「人知(あるいは人事)を尽くす」である。あらゆるエラーを想定し、対策を練っておく、何重にも防御策を築いておく、といった用意をしたうえで、もしなにごともなく無事に過ぎたとき、このタイプの人は初めて、神様に感謝するだろう。「成功したのは本当に幸運だった」と素直に言える。この最後の言葉だけを、言葉のまま真に受け、必然的に失敗した人は「自分には運がなかった」と呟く。
 そこには明らかな「運」の格差がある。それは「人知」のレベルが最初から違っているからだ。そのことに気づいていない人は、宝くじを買って夢を見る。人知を尽くすこともなく、ただ神頼みになる。

 

「偶然」を力だと錯覚する

 

 僕は若い頃、数学が得意だった。というよりも、それ以外が不得意だっただけだ。覚えなければならない学科は、覚えられない人間には無理なので、最初から勉強を諦めていた。数学だけが、なにも覚えなくても良かったから、ハンディがない。
 特に応用問題が好きで、計算を沢山しなくても良いのでミスも出ない。このような問題が解けない人から、どうやって発想するのか、ときかれたら、「偶然思いついた」としか答えようがなかった。
 つまり、僕の数学の能力は偶然に頼っていて、僕自身の力としては信じれらない。偶然思いつけるなら、偶然思いつけないときも当然あるだろう。したがって、自分はこれが得意だという認識はまったくなかった。なにしろ、発想の方法が自分でもわからないのだから、と自分の能力を悲観するしかない。
 中学生のときだが、一度だけ数学で悪い点を取った。そのときは風邪をひいていて、鼻がぐすぐすで、しかも計算問題ばかりで、一所懸命やったのだが、できなかった。
 そこで、以後は試験が近づくと、風邪をひかないように対策を練ることにした。体調くらいしか、準備するものがなかったのである。
 この時期、大学の先生は、入試の監督をさせられる。センタ試験と二次試験の両方だ。どうして、こんな寒い時期にやるのか気が知れない。
 センタ試験では、ほとんどの高校生が受験する。その試験会場の教室では、大勢が鼻をすすっていて、その音を聞くはめになる。ところが、二次試験になると、教室はシーンと静まり返っているのである。マスクをしている人は多いものの、誰もぐすぐすしていない。どうしてなのか。二次試験では、(たまたま僕がいた)国立大学を目指す人が集まってくる。当然、ある程度の学力レベルの人が大半になるからだ。
 これだけを見ても、人知を尽くした「運」の格差がわかる。

 

目標は転ばないこと

 

 年末の早朝、真っ暗な庭園を歩いたため、大きな石につまづいて転び、さらに大きな石を積んだ場所に倒れ込んだので、何箇所かを打撲。一番酷いのは膝の横だった。しばらく階段を上るのに苦労した。
 1月後半から、屋外は雪で凍った地面になり、とにかく滑りやすい。スパイクのついた靴を履いているが、それでも危険だ。最後に滑って転倒したのは四年まえだが、毎年「今年は転ばない」が目標となる。
 毎朝の犬の散歩が一番危ない。「私は絶対に転ばない」と言える人は、二足歩行ではないのだろう。

 

オーディオルーム。窓の外は真っ白で、とても眩しい。どこまでも滑らかに雪原が続いている。