岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ!


今川のもとに送られるはずが……
人質の家康がたどり着いた地とは

 えー、今はここ、「熱田湊」とは言いません。「宮の渡し公園」とか「七里の渡し舟着場跡」とか呼ばれています。
 江戸時代、東海道のうち熱田・桑名間の七里は陸路ではなく海路で、そのうちの尾張側の舟着場です。すぐそばに熱田神宮があります。

 

 「戦国の苦労人」ときいてとっさに思い浮かぶのは、やはり徳川家康。今川義元のところで人質生活を送ったのはよく知られていますが、その前に織田信秀(信長の実父です)に誘拐されています。
 家康は三河岡崎に生まれました。父親の松平広忠は織田と今川の間にはさまれ、城を追われて放浪生活を送ったこともあるとか。松平広忠は今川義元の支援を受け、岡崎城に戻ることができました。

 これにともない、今川義元から、
 「支援してやるので人質をよこすように」
 と松平広忠は言われた。ここまではまあ、戦国時代の常識ではあります。
 で、松平広忠は嫡男家康と家臣の子息(石川数正らが一緒だったそうです)を今川のもとに送ることにした。徳川家康が六歳のとき。
 このとき三河田原の城主、戸田康光という、松平広忠の家臣が、
 「陸路をとるとあぶないので、舟でお送りします」
 と、家康たち人質を舟に載せ、駿府どころが反対側の尾張熱田湊に行き、家康たちを織田信秀に引渡しちゃった。

 

 織田信秀はさっそく松平広忠に、
 「息子は預かった。息子の命が惜しければ今川を見捨てて俺につけ」
 と書状を送ったのですが、松平広忠は、
 「それは本来、今川義元殿にさしだした人質。煮るなり焼くなり勝手にせえ」
 って返事をした。なんかこう、戦国武将ってのはむちゃくちゃですな。
 結局、家康は尾張で拘束されたまま二年ほどで今川義元に救出され、こんどは駿府で今川義元の人質生活を送るわけです。

 

 いまでもこの近辺は水の都で、撮影の間にも屋形船が何度も往復してました。ついてるかなあとおもってアップにすると、やっぱりありましたよ、舳先に金のシャチホコ。でも、舟の名前はなぜか「頼朝」でありました。
 場所は名古屋市熱田区内田町。カーナビを設定するときは「宮の渡し公園」で。

〈了〉