前回の松代城編では、優れたリーダーシップにより、二次被害が最小限に抑えられた裏話を紹介した。今回は逆の例となる。
 寛政4年(1792)4月1日の午後8時ころ、激震が島原城と城下町を襲うとともに、普賢岳の一部である前山(眉山)が崩落。大量の岩や土砂が有明海に流出すると、大津波が発生して沿岸の町や村を襲った。
 この「島原大変」と称される大津波により、島原半島の東側では大きな被害を受け、死者は8000人に及んだ。島原城は、塀や櫓の一部が損壊したのに加え、噴火活動がこれ以上、活発になると、土石流や火砕流に飲み込まれてしまう危険もあった。そこで、大津波発生の翌日、島原城主の松平忠恕(ただひろ)は、領内の庄屋宅へと避難してしまう。
 城を捨てることは武門の名折れであるとともに、幕府から厳しい処分を下される危険も高かった。そのため、藩内には城を放棄することへの反対論も根強く、8日には川井次太夫という馬回役(藩内中級クラス)の武士が島原城の門内で抗議の意志を表すために切腹するという一幕もあった。
 天災によって一時的に放棄された島原城最大の見所は、再現性の低い天守よりも、壮大な石垣と濠。あまりにも堅固な城を築いたことは、島原の乱が勃発する一因となった。

 

 19日、忠恕は、領内を視察したところ、惨状を目撃したことによって体調に異常をきたしてしまう。翌日から病床につき、27日に没した。享年51。あまりの急死だったことから、城を放棄したことへの責任を取って自害したとも噂されている。
 死後、6男の忠馮(ただより)が島原藩主に就任。22歳の新藩主のもと、島原藩は大津波からの復興に取り組むことになる。だが、島原藩は、それまでの財政難による借金苦に加え、天災というダブルパンチを受けることになり、復興への道は果てしなく遠かった。
 この一件のように、災害によるショックにより、責任を果たせなくなるトップは意外に多い。それを責めるのは酷のような気もするが、どんな過酷な状況下でも、冷静な判断力を保持できなければ、トップとしての評価は半減されるだろう。