『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 御厩(おんまや)の渡しは、浅草三好町と対岸の南本所石原町とを結ぶ、隅田川の渡し舟である。明治七年に厩橋が架設され、渡し舟は廃止された。

現在の厩橋と隅田川

 安政二年(1855)九月十日、御厩の渡し舟が乗客九人をのせて隅田川を渡っていた。乗客のなかに若い女がいて、二歳くらいの赤ん坊を連れていた。赤ん坊がぐずって泣きやまないため、女は立ち上がってだっこし、あやし始めた。それを見て、隣にすわっていた若い男が手をのばし、女の裾をめくって指を奥に突っ込んだ。
 「きゃーっ」
 女が驚き、とび離れようとする拍子に舟が揺れ、思わず赤ん坊を川のなかに取り落としてしまった。ザブンという水音をたて、赤ん坊の姿が消える。
 「待ってー」
 悲鳴をあげるや、女は赤ん坊を救おうと水のなかに飛び込んだ。事態を見て、すかさず船頭が川のなかに飛び込んで、女と赤ん坊を引き上げた。女は無事だったが、赤ん坊は助からなかった。いたずらをした男は町奉行所に捕えられた。

 『藤岡屋日記』に拠ったが、男がどのような処罰を受けたかはあきらかではない。
 江戸時代、「痴漢は犯罪行為」という意識はなかった。上記の痴漢行為は赤ん坊が死亡したため事件となり、奉行所も乗り出した。もし赤ん坊を取り落とすことがなければ、女が「キャッ」と叫んで終わりだった。ほかの乗客はニヤニヤするか、せいぜい眉をひそめるくらいである。

 湯屋(銭湯)でも痴漢行為は多かった。
 従来、江戸の湯屋は男女混浴が一般的だった。当時は電気がないため、浴槽の部分は昼間でも薄暗い。そのため、痴漢行為はもちろんのこと、卑猥な行為におよぶ男女も少なくなかった。
 男女混浴は風紀が乱れるもととして、寛政三年(1791)一月、幕府は混浴を禁止した。しかし、実際にはなかなか実行されず、天保十二年(1841)に始まった天保の改革で、ようやく男湯と女湯が厳密に区別された。逆から言えば、江戸時代の後期になるまで、江戸では男女混浴が普通だったことになろう。

 春本『艶道日夜女宝記』(明和年間)に、湯屋の湯船のなかで男が女の陰部をまさぐっている絵がある。
 「これ、悪いことさんすな」
 女がたしなめた。男はけろりとしている。
 「悪うはせまいがの」

 明和年間(1764~72)の湯屋であれば男女混浴が常識だった。けっして春本の誇張でなく、ごくありふれた光景だったであろう。