鞍馬山での修行、弁慶との決闘など、伝説に彩られた源氏の若きスターの、誕生から初陣までの前半生に迫る連載!

自分が源氏の御曹司と知った
牛若は平氏討伐を夢見る

壇ノ浦・源義経像

 常盤の3人の子のうち、兄の今若は醍醐寺に入り禅師公全済(成)と称し、次兄乙若は八条宮円恵法親王に仕えて卿公円成と称し、いずれも出家した。長じて謀叛など起こさぬように、との政治的な処置である。末子の牛若も、鞍馬寺の東光坊阿闍梨覚日の許に預けられ、同寺で僧侶になるよう定められた。7歳の2月の初め頃という。名を遮那王と称した。
 東光坊覚日は亡父義朝の祈祷師であったことから、その縁故で鞍馬寺へ預けられたらしい。剃髪して僧侶になるまで、稚児として師僧に仕えつつ、読み書きを習い、来るべき出家に備える日々である。その勉学に励む姿は、修行の本場である延暦寺・園城寺であってもこれほどの稚児はなかろうというほどで、母ゆずりの容姿も抜群であったという。
 師の覚日も、ゆくゆくは自分の後継者と期待をかけ、母常盤も一方ならず喜び、修行の妨げになるので逢いに来てはならない、逢いたければ自分が訪ねるので使者をよこすようにとし、遮那王は1年に1度、2年に1度も里帰りすることなく学問に励んだという。

 ところが、学問ひとすじの生活は、ある時から一転する。『平治物語』では11歳の時、家の系図を見出し、また様々な記録を読むうちに、「父義朝の本望を達せん」と武士として生きることを決意したという。また『義経記』では15歳の秋の頃、故義朝の一の家人鎌田正清の遺児少進坊なるものが、深夜に訪ね来て「あなたは清和源氏の末裔で、義朝公の御子ですぞ、源氏が国々に押し込められていることを情けないとは思われませんか」と天魔のささやきをし、怪しげなやつと不審には思いつつも、それ以来、全く学問への志を忘れ、謀叛のことのみ考えるようになったという。
 武士となり世に出る、そう心に決めた遮那王は、一気にグレた。同輩の稚児とつるんで、木刀やら刀を振り回して近所の不良グループを追い回す。それまで昼夜なく学問に精進していた美しい稚児の面影は微塵もない。天狗・魔物が住むという僧正が谷を夜々越えて貴布禰社へ通うその振る舞いは、常人とは思えないと僧侶たちを震え上がらせた。

 義経が鞍馬山僧正が谷の天狗に武芸を習うのはこの時である。たしかに『古活字本平治物語』などには、義経が天狗に兵法を習う云々とみえるが、その話が定着してくるのは、ずいぶん時期が下るようで『義経記』にはみえない。
 鞍馬寺は山岳修験の寺院で、清水寺とならぶ京都の庶民信仰のメッカであった。近世には麓に宿坊が立ち並び、参詣する人々で大変なにぎわいをみせる。その信仰の広がりを支えたのは宿坊の経営者たちで、彼等は牛若丸に剣法を伝授した子孫を自称し、謡曲や歌舞伎など庶民芸能で高まった義経人気に便乗し、鞍馬寺信仰を広めていったと考えられている。牛若背くらべ石・義経堂などゆかりの場所も、いわゆるアトラクション的に参詣者に親しまれたのである。
 

第4回は、2月23日(木)に更新予定です。