選手として、そして監督として、長年プロ野球界の第一線で活躍してきた野村克也元監督。本格的にプロを志す前は、意外な職業を目指していました。

夢は歌手、そして映画俳優……。
実はプロ野球選手は3番目だった。

 とにかく貧乏から脱出したい。その誓いがすべての判断基準でしたね。私は、1935年に日本海に面した田舎町の京都府網野町(現・京丹後市)で食料品店を営む家族の次男として生まれたんですが、3歳のときに戦争で父を亡くしました。さらに、母が癌を2度患って店を閉めることを余儀なくされ、家族3人の生活は困窮を極めました。病弱な母を支えるため、小学3年生から3歳上の兄とともに新聞配達などのアルバイトを続け、中学校に入ると将来について真剣に考えるようになりました。大金持ちになって母を楽にさせたい。そのためにはどうしたらいいのか。そこでまず目指したのが歌手、次に映画俳優。実は、プロ野球選手は3番目でした。

写真/高橋亘

 歌手を目指した最大の理由は、美空ひばりさんの影響です。私より2つ歳下なんですが、電撃的にデビューし、あっという間にスターの階段を駆け上がっていく姿に感化され、「よし、俺も歌手になろう」と。それで音楽部に入り、発声練習などを必死にやりました。ただ、いまだにそうなんですが、私は音域が狭くて、高い音が出ないんですよ。今もカラオケで歌うときはキーを4つくらい下げる(笑)。「これはダメだな」と思い、1年で音楽部を辞めました。

 映画俳優になろうと決めたのは中学2年生の頃です。当時はまだテレビがないどころか娯楽も少なく、夕方になると、町に1軒しかない映画館に地元の人たちが足を運ぶような時代。入場料を払う余裕などなかったんですが、幸い、普段から親しくしてくれていた館長さんがタダで入れてくれましてね。阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎といった時代劇のスターが出演する映画はほとんど観ましたよ。そこで俳優の演技やセリフを覚えては、家に帰ると鏡の前で真似をしていました。
 ところがある日、ふと我に返った。鏡に映る自分の顔をじーっと見てね、「ああ、この顔じゃ無理だ」と。やはり映画俳優イコール男前という固定観念がありましたから、その瞬間すぐに諦めました。

 今振り返ると、なぜ会社の社長という夢が出てこなかったんだろうとも思いますよ。会社を興して成功すれば大金持ちになる可能性だってあるわけですから。ただ、うちの町は丹後ちりめんが有名で、見渡すと個人経営のちりめん屋さんばかり。社長なんて呼ばれる人は1人もいなかったので、その発想が生まれなかったんでしょうね。
 だから、少年時代の私の頭で考えられる選択肢は3つ。もともと熱狂的な巨人ファンでしたし、「赤バットの川上、青バットの大下」と呼ばれた川上哲治さんや大下弘さんたちスター選手が華々しく活躍する戦後日本のプロ野球界にも憧れていましたから、残るはもう、プロ野球選手しかありませんでした。
 こうして中学3年生から野球部に入り、私の長い野球人生が始まったというわけです。
 

明日の第二回の質問は、「Q2.中学3年生で野球部に入ってからの思い出を聞かせてください。」です。