もしも、ナチのホロコーストの元となった史上最悪の偽書『シオンの議定書』にひとりの文書偽造家が関わっていたとしたら? イタリアの知の巨人の壮大な企てに唖然!

19世紀のヨーロッパ史を俯瞰する壮大な物語

 2016年2月に惜しくも亡くなったウンベルト・エーコの小説『プラハの墓地』(2010年)を紹介しよう。彼の作品らしく、手にとって頁を開き19世紀末のヨーロッパの街路に迷い込んだと思ったら、あっという間に物語に引き込まれてしまった。少し冗長な描写が続いても、仕掛けであって、必ずその先に大きなカタルシスを用意しているのが、物語に通暁したエーコのいつもの手なので、期待を裏切られることがない。

 この小説の驚くべきは主人公以外はすべて実在の人物だということである。史実の縛りの上に物語を構築する手腕も素晴らしいし、フロイトやデュマ、あるいはガリバルディといった一癖も二癖もある人物を登場させて描いているところも読ませてくれる。

 修道僧の姿をして、証書の筆跡偽造を得意とする主人公は、トリノ、パリ、プラハと移動しながら、フリーメーソンやユダヤ人の組織に潜り込むスパイとして活動する。やがて、彼は史上最悪の偽書と呼ばれる反ユダヤの書、「シオン賢者の議定書」の作者であることがわかってくる。

『プラハの墓地』ではキリスト教の正系と異端、反ユダヤがテーマとして出てくる。が、これはエーコの代表作であり、前世紀を代表する文学書でもある『薔薇の名前』にもすでにキリスト教の異端ドルチーノ派として現れているテーマである。

『薔薇の名前』の遍歴修道僧である主人公ウィリアムは、 16世紀の教皇とローマ皇帝の間の争いに巻き込まれ、投宿した僧院で次々に起こる連続殺人事件の謎に迫ってゆく。この小説は、日本では宝島社の「このミステリーがすごい!」1991年海外編の1位となるなど、推理小説として受け入れられた。が、『薔薇の名前』はただのミステリーではない。文学や哲学の引用がふんだんに盛り込まれていて、何度読んでも新たな発見がある。

 1980年発表の『薔薇の名前』について、1978年に起きた左翼過激派によるイタリア元首相モーロ氏の殺害事件に衝撃を受けてこの作品を書いた、とどこかでエーコが書いていた。とすれば、もしかすると『プラハの墓地』も、格差社会からはみ出た若者がイスラム過激派に走る原因となっている現代ヨーロッパの差別の構造を意識して書かれているのかもしれない。これはエーコが最後に残した世界へのメッセージかもしれないのだ。

ウンベルト・エーコ(著)、橋本勝雄(翻訳)
『プラハの墓地』東京創元社
ウンベルト・エーコ(著)、河島英昭(翻訳)
『薔薇の名前』(上・下)東京創元社