2月25日いよいよ書店にて『角栄 凄みと弱さの実像』が発売される。戦後のシンボル田中角栄とは、いったい何者だったのか。著者と「時代のキーワード」とともに考察していく。1回目は「敗戦」である。文末の最後に毎回「角さんの教訓」があります!

 

1945(昭和20)年9月2日、ミズーリ号甲板にて降伏文書調印式。文書を読み上げるマッカーサー元帥と天皇・大日本帝國代表として重光葵外相と大本営代表として梅津美治郎参謀総長が署名(写真/米国国立公文書館藏:パブリック・ドメイン)

土建屋でも政治家になれる時代へ

敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。(田中角栄『日本列島改造論』)

 田中角栄が生まれた年は、1918(大正)7年、敗戦の玉音放送を「朝鮮(理研ピストンリング工場の移設工事請負)」で聴いた時は、1945(昭和20)年。当時、27歳。まさに戦中派世代であった。角栄と同世代=「大正生まれ」の男子は約1348万人。そのうち約200万人近くが戦死する(1/7の戦死率)という悲劇の時代を乗り越え、角栄は生き残ったのである。高等小学校を卒業後、早くから「土方(どかた)」として働き、19歳で自ら「土建屋」を経営した角栄は、1943(昭和18)年には「田中土建工業株式会社」を設立。年間施工実績全国50位以内にランクする中堅の土建屋ではかなりの優良企業だった。

 そして、1945(昭和20)年8月、敗戦を体験。もちろん角栄も1939(昭和14)年に陸軍騎兵隊として戦地に出征しているが、生き残っている。また前述した朝鮮からは終戦の11日目にはなんと日本に戻っている。さらに事業を始めた東京の飯田橋では、ほとんど空襲の被害も受けなかったのである。
 さらにさらに、戦争、敗戦へと道筋をつけた指導層が公職追放され、さらにさらにさらに占領軍による「新憲法」の公布(1946/11/3)、公布(1947/5/3)がなされたのである。
 「個人的な敗戦に対する思いはわかりませんが、角さんにとって、敗戦はチャンスだったんでしょうなあ」と平野貞夫氏は語る。

 このような混乱期に、事業を続ける「原資(お金などの資産)」があり、封建的な身分秩序が新憲法によって改正され、しかも旧秩序の指導層が「強制退場」。この時、角さん27歳の男盛り=若さもあった。
 角栄が、この時から27年後に北京で会うことになる中国の国家主席、毛沢東の言葉にいい仕事ができる条件として「若いこと、無名であること、貧乏であること」を述べているが、まさに角栄にとってはその3条件が「結果的」にすべて揃っていたのである。
 平野氏はそんな角栄にとってさらに大きな「推進力」を与えたものとして、「新憲法=日本国憲法」をあげる。
平野氏「角さんは、新憲法の申し子だったんです」

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