イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 神田新白銀町の裏長屋に焼継屋の夫婦が住んでいた。かねてより女房のおたきは、亭主惣吉の留守に大工を引き入れ、密通していた。亭主が邪魔になって仕方がないため、ふたりで謀殺することにした。
 「あたしが亭主に酒を勧めて酔わせるから。
酔っぱらって寝込んだら、合図を送るよ」
 「よし、外に隠れている」

 天保十三年(1842)十一月二十九日の夜、酔って寝込んだ惣吉を、忍び込んできた大工とおたきのふたりで、帯を首に巻いて絞殺した。
 翌朝、おたきは長屋の人々に泣きながら説明した。
 「目を覚ましたら、亭主が死んでいたんだよ。頓死しちまった」
 こうして、急死したことにして、葬送をおこなった。

 同じ長屋に、岡っ引きの手先をつとめる角平という男が住んでいた。惣吉の頓死に不審をいだき、それとなく近所の人々にたずねると、おたきのもとに間男が通ってきていたことがわかった。
 「これは、怪しいな」
 角平は寺に先回りし、送られてきた早桶(棺桶)をひらいて死体をたしかめると、首筋に絞められた紫色のあとがはっきりと残っていた。
 「これは絞め殺したに違いない」
 すぐに岡っ引きに知らせた。

 こうして、おたきと間男の大工はあっけなく召し捕られた。
 十二月十八日、ふたりは江戸の町を引き廻しの上、おたきは小塚原の刑場で磔(はりつけ)の刑に処された。間男の大工は獄門に処せられて、同じく小塚原の刑場で首を晒された。おたきは四十三歳だった。

 その後、それまで口をつぐんでいた人たちもしゃべり始めた。かつて、惣吉は上方で、人の女房だったおたきと密通していた。邪魔になった亭主をふたりで絞め殺し、江戸に逃げてきたのだという。

 『藤岡屋日記』に拠ったが、殺された男がかつて同じような凶行をしていたことが判明するなど、まるで現代の猟奇事件のようである。男と女の事件は江戸時代もいまも、本質的には同じということであろうか。

 なお、焼継屋とは、欠けた陶器を釉(うわぐすり)で焼きつけて継ぐ商売である。こうした焼継屋などを例にして、「江戸の人々はリサイクル意識があった」「江戸ではリサイクルが行きわたっていた」などという説があるが、必ずしも正しくない。要するに現代にくらべ、江戸時代は人件費が安く、物の値段は高かったからである。
 現在では多くの製品は、修理するよりあらたに買った方が安い。わざわざ金をかけて修理に出すのは思い出など、経済原理以外の理由である。