50歳以下の世代にとって田中角栄は、長嶋茂雄と同様に「リアルタイム」で何がスゴかったのか「皮膚感覚」でわからないのではないか。角栄と長嶋は、1974(昭和49)年に退陣・引退と第一線から去ったからである。今回は、角栄の「スゴさ」の発露となった「格差」の原点。「生まれ」で人生が決まる「運命」をブルドーザーでつき破る角栄の子供時代の「記憶」のお話。『角栄———凄みと弱さの実像』を上梓した、平野貞夫氏に話を聞いた。
1963(昭和36)年1月の日本海側を襲った記録的豪雪、いわゆる「三八豪雪」。写真は、新潟県長岡市の様子。積雪が家屋の2階まで達する(写真:パブリック・ドメイン)

怨念の原点=《表日本》に収奪された故郷

「裏日本」は停滞的で自己完結的な社会ではなく、競争場裡に解放されて一定の変化発展を促進される状況下にあり、「裏日本」観念はそのような状況下でのみずからの条件の不利性に想いをいたしたときに出てくる生臭さをもった観念である。(古厩忠夫『裏日本』岩波新書)

 田中角栄は、先の戦争に征っている。しかし、戦争から「無事」に生還している。自伝を含めた関連書籍をすべて当たれば、角栄の言葉からは先の戦争における「死の匂い」がまったくしない。これは後に記すが、「戦争ごときで死んでたまるか」という意志のような思いすら感じるはずである。

 高等小学校卒業の角栄が、皮肉にも、夏目漱石などの「岩波書店」文化の洗礼を受け、「自我と社会」の問題に煩悶し、戦死した同世代の旧制高校、帝国大学生の「学徒出陣」組よりも「個人主義」的で、「私(自我)」が「公(戦時体制)」より先に《確固》としてあったことは特筆すべきことである。つまり、社会(公)とは、法のもとに、私(個人)のエゴのぶつかり合いと折り合いによって「作られる(作為)」というヨーロッパ近代思想の「核」を、学歴が無かった角栄自身が「皮膚感覚」で持っていたことである。

 また戦後、太平洋戦争の敗戦をどう位置付けるかで発展した戦後デモクラシーの思想的柱となった丸山眞男(1914-96 *戦後民主主義の代表的知識人でオピニオン・リーダー。アカデミズムとジャーナリズムをつないだ政治学者)の批判の中で出てくる「あるべき市民(=主体的市民)」像こそ、すでに戦前に(!)「自分の頭で考え、社会で実践した」角栄と重なることがなんとも「皮肉」である。

 しかし、逆に言えば、角栄と「戦後民主主義」は地下水脈で繋がっていた! いや、その「水源」こそが田中角栄を育んだ「《裏日本》の土地=民衆の怨念」と捉えるのが平野貞夫氏である。

 明治時代の「自由民権運動」が盛んな土佐清水市で生まれ、吉田茂・林譲治から薫陶を受けた平野氏はこう述べる。

平野氏「角さんは、《裏日本》で生まれ育ったこと。《表日本》との『格差』を生んだ豪雪地域=新潟という土地が角栄を生み出したとも言えるのでないでしょうか。角栄の政治、『日本列島改造論』とは、この『格差解消』のためにあったのです。日の目を見ない《裏日本》に《政治の光》を当てること、これが角栄の使命だったと思います」

 《表日本》、《裏日本》の定義を、地理的に見れば、表とは、太平洋側(京浜・阪神などのベルト工業地帯)であり、裏とは、日本海側(表日本の発展に寄与すべく、ヒト・モノ・カネが、“原資”として簒奪された地域)のことを意味する。

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