歴史上の人物が紙面に躍動! チャーミングな義経が壮大なドラマに引きずり込んでくれる!

一見、アドリブに見える文章だが?

 町田康の初期の小説を読んで、いつもゴダール映画の主人公をイメージしていた。粋だけど、傷つきやすく、悪事には向かないのに、悪党ぶってみせ、最後は女にだまされてひどい目にあう様が、おぼっちゃまなのに悪ぶってみせる町田作品の主人公にそっくりなのだ。

 町田康の作品は適当に書かれていると思われがちだが、一見、アドリブに見える文章こそ、ほんとうは書くのが難しい。それゆえか初期は短編が多かったが、ついに大作『ギケイキ』(全4巻の予定)の刊行が始まったので、さっそく読んで思ったのは、日本文学にはまだこの手があったのか! ということだ。

『ギケイキ』とは「義経記」のこと。つまり古典作品を準拠枠にした文学だ。モダンジャズがコードというルールに則った自由演奏をしているのと同様に、準拠枠を利用した文学はきちんとした筋に乗った上で、作者独自のやり方で語りを崩す。最初の一行から、「かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官(ほうがん)と瞬間的に頭の中で変換してしまう。」と始まるのだから、「義経記」とは言っても、紛れもなく町田節なのだ。義経の古いイメージを壊す作品と言ってもいい。

 むちゃくちゃをやっているように見えても、きちんと書いているところもあり、例えば伊勢三郎義盛の家に泊めてもらう時に詠んだ歌について、東洋文庫の「義経記」だったら省略しているところを、「古今集」の紀友則の歌だとか解説していることでよくわかる。

『ギケイキ』は義経の一人称体だが、もともと町田康の作品はデビュー作の『くっすん大黒』の時から、一人称の破天荒な物語の型ができていた。この作品は、仕事を辞めてから三年間、来る日も来る日も酒を飲んで暮らしていた主人公が、妻に全財産を持って逃げられ、洗面所の鏡で自堕落に変貌した自分の顔を見出すところから始まる。

 自分の顔が置物の大黒に似てきた違和感から、その大黒像をゴミに捨てようとするたび失敗してしまう。大黒=無能という、社会が貼ったレッテルと戦い、もがいた滑稽譚なのだ。

 さて、『ギケイキ』には「そうだよそうだよソースだよ」という古い CMの宣伝文句が出てきたりするので、将来、世界文学の仲間入りをした時、訳注をつけるのがたいへんだろうなあ、というのが率直な感想だ。町田康は実にすごい作品を書き始めた。

町田康(著)『ギケイキ・千年の流転』河出書房新社
町田康(著)『くっすん大黒』文春文庫