鞍馬山での修行、弁慶との決闘など、伝説に彩られた源氏の若きスターの、誕生から初陣までの前半生に迫る連載!

密かに平泉を出発した義経は
駿河国で頼朝と初めて対面

壇ノ浦・源義経像

 治承4年(1180年)10月21日、富士川の合戦に勝利した源頼朝の宿所を訪ねる若者がいた。若者は頼朝に面会したいと言うが、土肥実平らは怪しんでなかなか取り次がない。ややあって頼朝がこれを聞くに、年齢からして奥州の義経ではないかと思い逢ってみるとやはり義経で、昔語りして懐かしさに涙したという。これが『吾妻鏡』の描く対面シーンである。

 頼朝は平治の乱(1159年)で父義朝に従って参戦したが敗れ、池禅尼の進言により命を救われ伊豆に配流されていた。20年以上、伊豆に逼塞(隠れて暮らすこと)していたが、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵する。頼朝の挙兵を支えたのは、伊豆・相模・駿河の武士たちである。
 伊豆国の平家の目代山木兼隆を急襲して謀叛の旗揚げとし、相模へ進むが大庭景親率いる平家軍に石橋山の合戦で大敗し、命からがら房総半島へと逃れる。房総半島では千葉常胤・上総広常らの支持をえて態勢を立て直し、隅田川のほとりまで進軍して坂東諸勢力へ参与を呼びかけ、武蔵秩父一族・下野の小山氏などを自陣に組み入れ、大軍となって父義朝の故地である鎌倉に入部した。

 この段階で、東国の親平家勢力は壊滅していたが、平家政権の大規模な頼朝追討軍はすでに東海道を南下しつつあった。頼朝勢力は富士川を前にあててこれを迎撃する。これが冒頭でふれた富士川の合戦であり、平家軍は頼朝軍を眼前にして戦わずして京都に引き返した。この無様な敗走を知った平清盛は「追討使に任じられた日から命は君に捧げたのであり、たとえ敵軍の前に死骸を晒したとしても何ら恥ではない。それが合戦もせずに逃げ帰ってきたとは、家の恥、後世の笑い物である。帰京は絶対に許さない」と激怒する。
 

第8回は、3月9日(水)に更新予定です。