鞍馬山での修行、弁慶との決闘など、伝説に彩られた源氏の若きスターの、誕生から初陣までの前半生に迫る連載! 頼朝軍を眼前にして戦わずして京都に引き返した自軍に対し、怒りをあらわにする清盛。しかし、頼朝軍と平家軍にはこの時すでに、大きな質の差があった。

平家、落日の始まり
源氏をまとめあげた頼朝のカリスマ

壇ノ浦・源義経像

 清盛の怒りももっともとは思うが、時代は変わっているのだ。かつての保元・平治の乱と今回では、全く異質の合戦が繰り広げられようとしていたのである。平家の追討軍が戦わずして敗走したのは、源氏軍との力量の差に愕然としたからであろう。平家軍と頼朝軍とでは編成原理が全く異なる。平家政権の編成する追討軍は、平家直属の家人を中核とし、それに狩武者といって徴兵で集めた兵士によって構成されるため、たとえ大規模でも極めて脆弱で戦意に欠けていた。
 一方の頼朝軍は、主体的に集結した連合軍である。頼朝は武蔵の勢力を呼び込むにあたり、三浦一族にそれまでの遺恨を忘れるよう促した。三浦氏は頼朝軍に合流する以前、武蔵勢に攻められ惣領の義明を失っていたが、連合軍の形成にあたっては、個々の遺恨を乗り越えて連携する必要があったのである。自身も石橋山で平家方についた相模武士のほとんどを許して御家人に編入する。こうして幾つかの国々の勢力が、主体的に結集して大きな武力組織へと成長したのが頼朝勢力であり、やがて鎌倉幕府に成長していったのである。

 義経が黄瀬川の宿に参じた当日、頼朝はある重要な決断を迫られていた。敗走する平家軍を追って上洛するか、引き返して坂東の敵対勢力を制圧するかの選択である。前者を希望する頼朝に対して、後者を主張する千葉常胤・三浦義澄らはそれを拒否した。指導者個人の意見よりも、全体の合意が優先された。頼朝の独裁的な主導力は、全体の合意に源泉がある。頼朝・義経の両人を破局に至らしめる要因は、すでにここに萌芽していたといえよう。
 

第9回は、3月12日(日)に更新予定です。