第36回 
追いつかれると嬉しくなる

 


追い抜いてもらっても良い

 

 前回、エラーが嬉しい、という話をしたが、研究者としての特質なのかな、という自己分析もあって、一般的ではなかったかもしれない。
 もう一つ、ちょっと変わった傾向がある。追いつかれると嬉しくなる、というものだ。やはり、研究者的な価値観ではないか、と思う。
 通常、仕事であれ、プライベートであれ、なんらかの競争があって、自分がリードしている状況が望ましい。そんなとき、他者が追いついてきたら面白くない、と感じるのが普通だろう。追いつかれないかと不安になり、後ろばかり振り返る人も多い。競争とは、誰が一番かを争うものだから当然こうなる。
 ところが、研究者の感覚は少し違っている。まず、研究者とは、その分野において世界のトップにある人のことだ。先端という言葉のとおり、針の先のように小さな領域であっても、自分が一番である、という確かな自覚と自負を持っている。
 そんなとき、まったく同じ領域において後進が育ち、成果を挙げて近づいてくる。二番手の出現だ。
 この場合、ライバルが現れたわけだから、対抗心は湧く。だが、普通の人が抱くような不安あるいは不愉快な気持ちにはならない。
 反対である。追いついてきてくれたことが嬉しい。さらに、追い抜いてくれても良い、とさえ思う。この分野での探求がさらに進むのなら、そんな幸せはない。素直にそう感じるのが、研究者なのだ。
 それまでは、自分一人だった。誰にも相談できなかった。教えてもらうこともできない。それが、ライバルの出現で、話ができるようになる。その開放感がまずあるだろう。
 自分を追い抜くとなれば、それは、自分が解けなかった謎が解明されることに近いわけだから、まるで、労せずして利を得るみたいなラッキィな状況にもなる。喜ばしいと感じない方がおかしい。
 研究には、シェアを奪われる、という感覚がない。「開発」であれば、「二番では駄目なのです」という話になるかもしれないが。
 ものごとを探求するという楽しみは、誰かが手にすれば自分の分がなくなる、というものではない。探求する対象はいくらでもあるし、探求している自分の中から、楽しみが無限に湧き出てくるからだ。

 

嫉妬をしたことがない

 

 実は、僕は「嫉妬」という体験がない。嫉妬の意味は知っているけれど、自分がその立場になったことがない。また、他人を羨ましい、妬ましいと思ったことが一度もない。
 たとえば、お金持ちを羨ましいとは思わない。お金持ちになりたい人だったのだな、と思うだけだ。みんなが自分の欲望を自分の方法で実現しようとしている。その欲望は人によってさまざまだし、また方法も人それぞれで違っている。結果が良くても、方法が嫌なときだってある。
 人から恨まれるようなことをしてでも金を儲けたい、という人もいる。恨まれるのは嫌だら金は諦める、という人もいる。どちらが正しく、偉いというわけでもない。
 だから僕の場合、羨ましいとか嫉妬とか、そういう他者との比較関係になりえないのである。自分と同じ人間はほかにいないのだから。
 こういった価値観は、やはり、価値をシェアしていないから生まれるものだろう。つまり、人と取り合いにならない。欲しいものは、すべて自分の中から生まれてくるのだから、誰かに取られる心配もなく、また、欲しいものは無限にあるので、いくらでも人と分かち合える。
 僕は、欲しいものを買うために行列に並んだことがない。僕の欲しいものは、そんなふうに数に限りがあるものではないからだ。誰かが素晴らしいものを持っていても、それが欲しいとは思わない。自分にとって素晴らしいものは何か、と考え、人と同じものを欲しくはない。
 悪事を働く人を見ても、困ったことだな、と感じるけれど、腹が立つことはない。それが、その人の欲望と方法なのだなと思い、そういう人がいることを認識し、自分の立場を確認するだけである。

 

無自覚の無関心

 

 羨ましいと思わないから、羨ましがられることにも興味がない。したがって、自慢という行為が、僕にはわからない。ときどき指摘されて、「あ、今の自慢だった?」と気づくのだが、正直なところ、全然意識していない。自慢して、自身になにか得なことがありますか? 何のために人間は自慢するの? と尋ねたくなってしまう。
 逆に、人が僕に対して悪い印象を持っても、全然気にならない。直接の被害がないからだ。世の中の人は、余計な心配をし、気を回しているみたいだけれど、どうして?

 

模型飛行機を飛ばしている場所。下の白と中央の黒はそのまま、上半分を青に各自の頭で補正してご覧下さい。