常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 『ヤマト建国は地形で解ける』をシリーズで紹介いたします。
対馬・浅茅湾

島国と大陸の意識の違い

「魏志倭人伝」の記事は興味深い。中国大陸や朝鮮半島の感覚でいえば、「農業では食べていけないから、仕方なく海に出ているのだろう」と感じただろうが、それは、大きな誤解だったはずだ。
 島国育ちと大陸育ちでは、海に対する発想が、根本的に違っていたのだ。

 陸づたいにどこまでも行ける大陸の人間にとって、一歩間違えれば沈没して命を落とす海は恐ろしく、海人の気持ちは理解できなかっただろう。船に乗るのは、まっぴらごめんと思ったにちがいない。だから対馬や壱岐の海人の「市糴(してき)」を、「食えないから仕方なく海に出ている」と解釈したのだろう。

 なぜ対馬の海人が大活躍したのか、対馬を一度訪ねれば理解できる。あそこは、農耕民や騎馬民族的感覚で観れば、住める場所ではない。平地がほとんどない。島全体が、山と谷なのだ。日本列島に稲作文化をもちこんだ渡来人たちも、対馬は素通りしたことだろう。しかし海人たちには、楽園だったのだ。

 戦後の史学界は、朝鮮半島から大量の渡来人が日本に押し寄せたと信じてきたし、お恵みを頂戴するように、あらゆる文化をもらい受けていたと解釈してきた。しかし、これはまちがいだ。
 文物は一方的に流れるわけではない。必ず彼我の間に損のない取引があったはずだ。だからこそ「魏志倭人伝」には、「南北市糴」と記されていたのであって、対馬や壱岐、唐津の海人たちが、盛んに海を渡り交易し、生活の糧にしていたのである。 

 また、朝鮮半島側の史料『三国史記』には、「倭人がたびたび襲ってきた」と記録している。大陸や半島の人間は、命を賭して船に乗るという発想に乏しかったのであり、かたや縄文時代から大海原に果敢に飛び出していた島国の人々は、優秀な漁師であるとともに、商人でもあったのだ。北部九州と朝鮮半島をつなぐ交易の担い手は、縄文系の人々だったのである。
 稲作民に、「航海に行ってこい」とけしかけても、それは無理というものだ。渡来人が海を渡ってきたのは、「命からがら逃げてきた」からであり、その後の朝鮮半島と九州島の交流に一役買っていたわけではあるまい。
 シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」②に続く。

『地形で読み解く古代史』より構成