常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「ヤマト建国は地形で解ける」をシリーズで紹介いたします。

稲作を選択したのは縄文人?

 弥生時代の到来と共に、稲作民が大挙して日本列島に押し寄せてきたと、長い間考えられてきた。北部九州に上陸した彼らは、あっという間に東に移動し、稲作は広まり、また、天皇家の祖は、朝鮮半島からの征服者と、漠然と誰もが信じていたのだ。
 しかし、東洋史学者の江上波夫の唱えた騎馬民族日本征服説は、考古学的にはやばやと否定され、纒向遺跡に九州の痕跡がほとんどみつからなかったことから、「朝鮮半島→北部九州→ヤマト」と、征服者が移動してきた可能性も、低くなった。

 残された問題は、稲作文化を携えて海を渡ってきた人たちが、日本人の祖先なのか、ということだ。
 まず、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが、数世紀早まり、紀元前十世紀ごろだったことが分かってきて、これが大きな意味を持っていた。
 これまで九州から東に、稲作民が先住の縄文人を蹴散らし制圧していったというイメージがあったが、実際には、ゆっくりとしたペースで、伝播していったことになるからだ。
 北部九州の発掘が進展して、稲作伝播後の周辺の変化と動きも見えてきた。渡来人たちは、まずコロニーを形成し、稲作をはじめ、少しずつ周囲の人々も、稲作を受け入れ、融合していった様子がみてとれる。渡来人が周囲を圧倒したわけではなかったのだ。
 そして、縄文時代と弥生時代の区切れ、境目がどこなのか分からないようになってきている。弥生土器に縄文的な文様が残ったり、稲作民の集落の墓に、縄文人的な骨格の遺骨が埋納されたりと、稲作民が北部九州を席巻したというかつての常識は、通用しなくなってしまったのである。

 考古学者の金関恕ひろしは『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のようにまとめている。要約する。

(1)稲は遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり、陸稲(りくとう)として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とはかねてより密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と弥生人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が、自主的に新文化を受容した。
(4)弥生時代の初期ではなく、そのあと、まとまった移住があったのだろう。

縄文時代後期には栽培されていた陸稲。写真はネパールの陸稲。

 かつての常識は、やはり覆されたのだ。ただし、(4)に関しては、異論もある。
 たしかに、現代人に占める渡来系の遺伝子は、相当な割合を占めている。しかし、違ったアプローチで、この謎を解いた学者がいる。それが中橋孝博だ。どういうことか、説明しよう。
 シリーズ『ヤマト建国は地形で解ける』④に続く。

『地形で読み解く古代史』より構成】