常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「ヤマト建国は地形で解ける」をシリーズで紹介いたします。

日本人のなりたち

 弥生時代の始まりが紀元前三世紀と信じられていた時代には、渡来人が百万人規模でやってきたと考えられていたが、弥生時代の始まりが数百年遡ったことで、少数渡来、先住の縄文人と融合、その後の人口爆発という仮説が浮かびあがってきたのだ。  その上で、シミュレーションをしたところ、渡来系住民が人口比一〇パーセントと仮定して、一・三パーセントの人口増加率で、三百年後には、渡来系の住民が全住民の八〇パーセントに達することが分かった。人口比を〇・一パーセントと極めて低く見積もっても、二・九パーセントの人口増加率で、同じ結果が得られたという。
 要は、本格的に農耕を始めた人たちだけが、増殖していったのだ。

弥生時代の稲作。国立科学博物館展示の模型より

 採集狩猟民族は、必要以上の殺生を避け、縄張りを守るのに対し、農耕民は余剰を生み、子供が増え、その子たちのために、新たな農地が開墾された。
 弥生時代に戦乱が勃発したのは、土地の奪い合いが起きたからである。

 なぜ弥生時代の渡来人と人口爆発の話をしたかというと、日本人の成り立ちを知りたくなったからだ。
 少数の渡来者が先住の縄文人の中に紛れ込み、融合し、子や孫が生まれ、日本列島で育った。彼らは渡来系の血が濃いのに、「列島人(先住民、縄文人)よりも列島人(先住民、縄文人)らしい」とからかわれるほどに、同化していったにちがいない。そして、顔は渡来系に見えながら、すっかり列島人になっていったのだ。
 また、古い水田は海岸に近い地域に造られていた。弥生前期の終わりか中期になって、ようやく最先端の稲作技術がもたらされたのか、内陸の扇状地や谷などに、水田が広がった。だから当初から爆発的に水田が増えていったわけではない。
 また、四国や九州など西日本の山村では、長い間焼畑農業が営まれてきたが、その文化や生活様式は、東南アジアや中国南西部の「稲作以前」の文化とよく似ていて、稲作伝来以前から継承されてきたものと考えられている。
 もちろん、古墳時代から七世紀にかけて、多くの人々が朝鮮半島の動乱から逃れてきたことも、忘れてはなるまい。しかし、日本の文化、信仰の原型は、一万年続いた縄文時代に求められるのであり、それは、弥生時代の到来と共に消し去られたのではなく、継承され、民族の三つ子の魂となって、脈々と生き続けたのだ。

  北部九州の発展は、稲作がいち早く到来したからではなく、縄文の伝統を継承した勇敢な海人が、「南北市糴(してき)」したからである。
 この、交易を生業としていた沿岸部や島嶼(とうしょ)の人々と、土地を耕す人々の間には、同じ北部九州に住んでいても、意識の差は大きかったと思われる。
 北部九州といえば、一枚岩のように考えてしまうが、同じ地域のなかにも、生業と利害を異にする人々が暮らしていたという、あたりまえすぎるほどあたりまえのことを、まずここで、再確認し、その上で、話を進めていこう。
 ヤマト建国に果たした北部九州の役割だ。
 シリーズ『ヤマト建国は地形で解ける』⑤に続く。

『地形で読み解く古代史』より構成】