プロ4年目で初めてホームラン王のタイトルを獲得しても、“危機感”が常に側にあった。だからこそ慢心をせず、3000を超える通算試合出場にもつながったのだ。自身の生涯を振り返った新刊『壁』を発売する野村克也氏は言う「苦労は買ってでもしろ」。

2軍での辛く厳しい経験と、1軍で抱き続けた危機感

「これでレギュラーは安泰だ」なんて考えたことはなかったですね。

 貧乏から抜け出すためにも、1軍で活躍して大金持ちになりたいという初志とともに、2軍には2度と戻りたくないという強い意志を持っていましたから。

 何と言っても、世間からの注目度が高く、高給をもらえる1軍の選手と比べると、2軍の選手はすべてが正反対でした。

 2軍では、試合をしても観客はほとんどいませんし、ヒットを打って拍手されることもない。合宿所に帰れば、物置を改造した窓のない3畳間の部屋で過ごすしかなく、食堂で出される食事も丼飯に味噌汁と漬物が付くぐらいでした。

 契約金ゼロのテスト生として入団した私の当時の月給は7000円でしたが、そのうち3000円を部屋代と食費で取られ、故郷の母に毎月1000円を仕送りしていました。ですから、手元に残るのは3000円。

写真/高橋亘

 もうね、スーツを買う金なんてないですから、プロ入り2年間は、ずっと学生服で通しましたよ(笑)。試合のために遠征をするときにも、1軍は特急の1等車で電車移動をするというのに、2軍は夜行列車。座る席もなかったので、通路に新聞紙を敷き、ボストンバッグを枕にして寝ていました。そうした2軍時代を2年も経験したからこそ、2軍には戻りたくないと心底、思えたんです。

 さらに、「いつレギュラーから外されるかわからない」という危機感を抱き続けたことも大きかったですね。

 当時の私は、どちらかと言うとバッティングを評価されてレギュラーに選ばれていたんです。キャッチャーとしての配球の面などでは、もともとレギュラーだった松井淳さんのほうがレベルは上でした。

 だから、鶴岡監督に松井さんを起用しようと思わせないためにも、どんなときでも気を緩めずにプレーすることを心掛けていました。

 その気持ちは、プロ4年目で初めてホームラン王のタイトルを獲得しても、まったく変わりませんでしたね。

 ところが、翌年のある試合中、打球を右手親指に当てて骨折してしまったんですよ。そのときはもう、それまで以上の危機感に襲われました。もし監督に伝えれば、次の試合は松井さんが先発のマスクをかぶることになる。

 そこで松井さんが活躍して再評価されたら、たとえケガが完治しても私が戻る場所はもうないかもしれません。

 せっかくテスト生からここまで這い上がってきただけに、そうした事態はどうしても避けなければならない。

 そこで私は、監督には、ケガのことを秘密にして出場することを選びました。骨折箇所はブリキのサックで固定し、痛み止めの注射も打って……。

 当然、試合中に何度も痛みを覚えましたが、その度に危機感が背中を押してくれましてね。そうして、何とかいつもと変わらないプレーをすることができたんですよ。

 2軍での辛く厳しい経験と、1軍で抱き続けた危機感。

 今振り返ってみても、この2つを身をもって味わっていたからこそ、1軍のレギュラーに定着しても慢心せずに済んだ。そして、それが3000を超える通算試合出場にもつながったのではないかと思います。

 当然、幼少時代は、貧乏が本当に嫌で、苦労など堪ったものではないと思っていたのですが、「苦労は買ってでもしろ」という考えは、決して間違っていないんですよ。

明日の第十四回の質問は、「Q.14 1軍でスランプに陥ったことはありますか? そこからどのように脱出しましたか?」です。