常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「ヤマト建国は地形で解ける」をシリーズで紹介いたします。

不思議な豊岡の地形

 ここで無視できないのが、山陰海岸国立公園の東側に位置する旧但馬国の豊岡盆地なのだ。
 ここは、不思議な地形をしていて、海の民の楽園だった可能性が高い。

写真を拡大 国土地理院 色別標高図を基に作成

 豊岡の海岸地帯には急峻(きゅうしゅん)な山がそびえ、その間を円山川が通り抜けている。狭い河口部から、内陸に進むと、両側に高台が迫り、しばらく進んで、ようやく広い平らな土地に出られる。まるで、子宮のような地形をしている。このため、豊岡は平野ではなく、盆地とみなされているのだ。
 鳥取県側から見て、豊岡に向かうには、陸路は難儀するため、船を用いただろう。ただ、豊岡の盆地に入るためには、円山川の両岸の山並みに睨まれる。まるで関門のようなイメージだ。もし西側が豊岡を攻め寄せるとしたら、海岸部の狭い「関」を通り、さらに、円山川を遡らねばならず、ここで激しい抵抗に遭ったことだろう。豊岡盆地は、守る側にとっては、これ以上にない土地だった。

豊岡円山川河口

 当然、海の民は城塞として堅く守り、彼らは楽園をつくりあげたにちがいない。その証拠に、袴は かざ 狭遺跡(兵庫県豊岡市出いず石し 町)から、古墳時代前期(四世紀初頭)の「大船団の線刻画」が出土している。長さ一九七センチ、幅一六センチ、厚さ二センチの杉材に、十六隻の外洋船(準構造船)が、巨大な船を守るようにしている様が描かれていたのだ。豊岡と海のつながりが、はっきりと分かる。

 出雲で盛行した四隅突出型墳丘墓が但馬、丹波に伝わらず、直接越に伝わったのは、「豊岡という海の要塞」が存在したからではないか……。
 そして、ここに棲みついたのが、アメノヒボコだったことは、注意を要する。

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