大衆の声こそ神の声である。
──安藤百福

 前回紹介したように、安藤百福氏の執念により生み出された「チキンラーメン」は、1958年8月25日に発売されました。“世界初のインスタントラーメン”である同商品でしたが、安藤氏の自信とは裏腹に、食品問屋からの反応は当初、決して芳しいものではありませんでした。

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 いざ食品問屋に持ち込むと反応は冷たかった。「袋に入っただけで、今までの乾めんとどう違うんや」と言うのだ。試食した問屋の主人は、何より八十五グラムで三十五円という値段が気に入らなかった。
「うどん玉が六円ですよ。乾めんでも二十五円や。これでは商売にならん」。どの問屋も異口同音に、乾めんと同じようなものだ、値段が高いと言う。私は、見た目は似ていても中身が違います。こちらはお湯をかけるだけで食べられるラーメンなんです、と説得した。
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』より)
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 しかし、チキンラーメンを実際に食べた人の「おいしい」「これは便利」という声はすぐに広まり、商品を求める消費者の声におされて小売店から問屋に注文が殺到。「これは売れる!」となった問屋は、我先にチキンラーメンの納入を希望するようになったのです。

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 チキンラーメンはいくら作っても需要に追い付かなかった。工場では問屋の人たちが四万円、五万円といった現金を懐に入れて、製品ができるのを待っていた。中には、二十万円もの前金を置いていく人もいた。商品を待つ問屋のトラックは高槻工場を一周し、さらに国道まで延びていた。
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』より)
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安藤百福氏(写真:AP/アフロ)

 チキンラーメンが成功した理由について、安藤氏は折に触れて「時代が私に味方していた」とも語っています。商品力が圧倒的だったのは当然のことながら、結果的にはタイミングも絶妙だったということです。たとえば、チキンラーメンが発売された1958年は、スーパーマーケットチェーンの先駆けであるダイエーが「主婦の店ダイエー」を神戸市三宮に開店し、チェーン展開をスタートさせた年でもあります。新しい欧米型流通システムが登場し、インスタントラーメンといった加工食品を大量販売するルートが確立されていったわけです。
 加えて、テレビの登場も追い風になりました。街頭テレビに人々が群がっていた時代、安藤氏はテレビコマーシャルという新しい宣伝手法をいち早く採り入れ、多くの消費者にチキンラーメンを印象付けました。テレビの普及に歩調を合わせるようにして、日清食品とチキンラーメンの存在は確実に広まっていったのです。現在でも「カップヌードル」のコマーシャルをはじめとして、日清食品はユニークかつ印象的なCM施策を展開して話題を呼ぶことが少なくありません。そうした宣伝戦略は、いまでも同社が安藤氏の精神や考え方を脈々と継承していることの証左と見てもいいでしょう。
 時代性という点では、当時が高度経済成長の真っ只中であったことも見逃せません。

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 時代は岩戸景気に入り、池田勇人首相が所得倍増論を打ち出した。人々は生活を謳歌するのに忙しく、食事にも簡便性を求めるようになった。チキンラーメンの発売から二年後、森永製菓がインスタントコーヒーを発売し、「インスタント」が流行語になる。すべてが私に、追い風となって吹いているようだった。
 日清食品の売り上げは順調に伸びて、創業五年目で四十三億円に達した。経営の基盤は固まったと思い六十三年の十月、東京、大阪両証券取引所の第二部に上場した。池田市の研究小屋で悪戦苦闘した日々を思い返すと感無量で、胸がいっぱいになった。
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』より)
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 高度経済成長期、家電、自動車、食品などなど、日本ではさまざまな商品が生み出され、それらは人々の暮らしを豊かにし、多くの企業が成長していきました。頑張れば、頑張っただけ成長できる──日本中の人々がそう信じて自らの仕事に取り組み、実際に生活水準は右肩上がりで向上していきました。たしかに、良い時代でした。

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