慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

しかし、慶長3年(1598)、秀吉が他界すると、豊臣政権は激しく動揺した。その 最大の理由は成人の後継者がいなかったことである。遺児の秀頼(ひでより)は幼少で、豊臣政権を担うのは無理だった。

秀吉死後の体制を五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)制というが、実質的には徳川家康と前田利家(としいえ)の二頭制だった。三成は当然、利家に家康に対する抑止力を期待した。

家康が秀吉の遺言を破って、伊達政宗(だてまさむね)・福島正則(ふくしままさのり)・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)らと縁組を結び、勢力を拡大し始めた。危機感を抱いた三成は利家や他の奉行衆を動かして家康を詰問させ、その動きを押し止めた。

しかし、利家はわずか半年ほどで秀吉のあとを追って他界してしまう。家康を抑える重石はなくなった。家康は競争相手である大老の一人、前田利長を策略で屈伏させてしまう。家康は豊臣「公儀(こうぎ)」(政権の中枢)を占拠してしまった。(続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。