慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

一方、武断派といわれる豊臣恩顧(おんこ)の大名たちは出頭人として権勢を振るった三成の追い落としを図り、実力行動に出た。彼らが三成に反発したのは、朝鮮出兵で三成とその配下の奉行人が彼らの功績を評価せず、逆に軍紀違反などを秀吉に報告したためだといわれている。三成の厳格な仕事ぶりが皮肉にも彼らの恨みを買ったのである。

同4年閏(うるう)3月3日、政権の重鎮だった利家が大坂で死去した、まさにその夜、加藤清正(きよまさ)・福島正則(まさのり)ら七将が三成を襲撃しようとした。三成は間一髪で脱出して伏見の自分の屋敷に逃れた。家康は豊臣譜代衆の対立を見ると、豊臣政権の代表として仲裁に乗り出し、三成を佐和山(さわやま)に引退させることで合意を取り付けた。 

家康の専横は極まる。領国経営のため、会津に帰国した同僚の上杉景勝(かげかつ)に対しても、前田利長と同様に謀反の嫌疑をかけて屈伏させようとした。しかし、景勝は家康の上京命令を拒絶して謙信以来の武門の意地を通した。家康は会津攻めのために諸大名に出陣を命じた。それは同時に、佐和山で家康打倒の機をうかがっていた三成にも挙兵のチャンスをもたらしたのである。(続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。