1970年に南海ホークスの監督に就任。同時に4番バッターとして、さらにはキャッチャーとして。一人三役をこなさなければならない状況の中、頼ったのがドン・ブラッシンゲーム、通称ブレイザー。“考える野球”を授けてくれた恩人である。新刊『壁』を発売する野村克也氏が、「出会うべき人」を語る。

監督人生に大きな影響を与えてくれたブレイザーとの出会い

 まだ35歳でしたし、1軍のレギュラーでもあったので、監督の要請が来るとは微塵も思っていなかったですね。

 30代に入ってから引退後のことを常に意識するようになりましたが、プロ野球の世界はやはり学歴社会。12球団の監督のほとんどが大卒だったので、高卒のテスト生上がりの私が、プロ野球の監督になれるわけがないという気持ちが強かったんですよ。

 ところが、プロ17年目の1970年に南海ホークスの監督に就任することになった。それもプレーイング・マネージャーですから、監督、4番バッター、キャッチャーの一人三役をこなすことになったわけですが、どう考えても、これは難しい話でした。

 なぜなら、“チームの鑑”である4番バッター、“守備の要”であるキャッチャーとしてプレーに集中すると同時に、監督としても客観的に試合の流れを読んで、采配を振るわなければいけないんですから。精神的、肉体的な負担は計り知れません。

 そこで監督に就任する際、私がヘッドコーチに指名したのがドン・ブラッシンゲーム、通称ブレイザーでした。

写真/高橋亘

 彼は1967年に南海ホークスに入団してきた元メジャーリーガーで、グラウンドや食事の席などで話を聞けば聞くほど、その卓越した野球理論に舌を巻くほどでした。

 実は、1964年の秋にメジャーリーグのワールドシリーズを観戦したことがあるんですが、そこで私が実感したのは、「メジャーリーグはパワーとスピードに頼るだけではなく、極めて緻密に頭を使ってプレーしている」ということでした。

 パワーで勝ることは、あり得ないことですから、もし緻密さでも劣るとしたら、日本の野球はいつまでも経ってもメジャーリーグに追いつくことはできない。

 そう考えていたときに、メジャーリーグの野球を熟知しているブレイザーと出会ったんです。

 たとえば、ヒットエンドランのサインが出たときに、バッターが頭に入れておくべきこと、ダブルプレーを防ぐスライディングの仕方、キャッチャーのサインに連動した守備陣形の考え方など、今では常識となっているさまざまな野球理論ですが、当時の私からしてみれば、実に驚くことばかりでした。

 ブレイザーとの出会いで知った、緻密に頭を使ってプレーする野球、つまり“考える野球”は、私の野球観をさらに深めてくれました。それをチームにも浸透させたいという思いがあったからこそ、ヘッドコーチに彼を招へいしたんです。

 さらに、私が絶大な信頼を寄せているブレイザーがベンチにいてくれれば、プレーに集中したいときには彼に指揮を任せ、余裕が出たときは私が指揮を執るという役割分担も可能なわけです。

 そうすることで私自身の負担も軽減され、プレーイング・マネージャーとして“考える野球”の実践に力を注ぐことができると考えたんです。

 そして、それがついに実を結んだのが、監督就任4年目、1973年のパ・リーグ制覇でした。

 私は今もなお、“考える野球”の重要性を提唱していますが、その礎を築き、私の長い監督人生に大きな影響を与えてくれたのがブレイザーだったのです。

 出会うべき人にいかに出会えるか。

 それもまた、人生にとって大切な要素なのでしょう。

明日の第十七回の質問は、「Q.17 1977年秋にプレーイング・マネージャーを解任されましたが、そのときはどんなことを考えましたか?」です。