慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

慶長5年(1600)7月、三成は盟友の大谷吉継(よしつぐ)や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と語らい、中国の雄、毛利輝元(もうりてるもと)を担いで挙兵した。その大義名分は「内府(ないふ)ちがひの条々」という13カ条の家康弾劾状だった。

伏見城の攻撃を手はじめに西軍は美濃・伊勢・北国方面に向けて進軍を開始した。軍勢は10万以上にのぼったが、士気は決して高くなかった。その多くは家康の会津攻めに従軍するために上京してきた西国の大名たちで、三成たちに近江野洲川の関所で押し止められて、やむをえず西軍に参加した者が多かったからである。

三成は8月10日、小西行長(ゆきなが)や島津義弘と共に美濃大垣城まで進出した。三成は強気だった。秀頼を戴いて上方を占拠すれば、家康に従った豊臣譜代の大名たちも動揺して分解し、家康も関東にこもるしかないと判断していた。

三成が真田昌幸(さなだまさゆき・信州上田城主)や佐竹義宣(さたけよしのぶ・常陸水戸城主)にあてた書状で「仮に家康がうろたえて西上してきても、せいぜい2、3万人だから、尾張と三河の国境で討ち取ってみせる」と豪語している。(続く) 

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。