慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

しかし、三成の思い通りにことは運ばなかった。三方面に分進した西軍の動きが緩慢で、美濃への兵力集中が実現できなかった。しかも、大名たちが家康の武威を恐れている様子で、それが兵士にも伝わり、士気が低下するばかりだった。その間に東軍は豊臣譜代衆が先手となって尾張清洲城に入り、西軍の最前線拠点だった岐阜城を攻略し、しかも長良川(ながらがわ)を押し渡って、大垣(おおがき)城の北にある赤坂に陣取ってしまう。 

三成には思いもよらぬ誤算だった。しかも、誤算はさらにつづく。西軍総大将の毛利輝元が大坂城にこもりきりで出陣してこない。三成は美濃と近江国境である不破(ふわ)の関近くの松尾城に入ってもらうつもりだった。しかし、9月14 日、伊勢に進軍しながら、近江高宮で滞陣したままだった小早川秀秋が急に動き出し、松尾山の守備兵を追い出して占拠してしまったのである。明らかに西軍に対する利敵行為である。 

西軍は誤算つづきだったとはいえ、大垣城に3万以上、その西の南宮山(なんぐうさん)にも3万ほどの軍勢がいた。家康も西軍を容易に崩せぬと一時は大垣城の水攻めを考えたほどで、持久戦になると東軍も苦戦は免まぬがれなかったはずである。 (続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。