南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズを渡り歩いた、生粋のパ・リーグ育ち。それがなぜ縁もゆかりもないセ・リーグ、スワローズの監督に? そこには当時の球団社長の殺し文句があった。新刊『壁』を発売する野村克也氏が思い起こす、「心を揺さぶった」言葉。

これで落ちない人はいない。相馬球団社長の熱意!

 野球評論家として9年目のシーズンを終えた1989年秋、私の自宅に突然の来客がありました。それは、当時ヤクルトスワローズの球団社長を務めていた相馬和夫さんでした。

 私は人付き合いが得意ではないこともあり、12球団のフロントの方とはほとんど交流がありませんでした。当然、相馬さんとも面識はありません。

 疑問に思って訪問の理由をうかがうと、「来年からうちの監督をやってくれませんでしょうか?」ということでした。

写真/高橋亘

 さすがに驚きましたね。私は、南海ホークス、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズを渡り歩いたパ・リーグ育ちの人間ですから、セ・リーグのスワローズとは縁もゆかりもない。ましてや、現役引退後は評論家活動に専念していましたし、自分に監督の依頼が来るなんて夢にも思っていませんでしたからね。

「なぜ私なんですか?」と聞いてみたところ、相馬さんの答えはこういうことでした。

「いつもテレビの野球中継で野村さんの解説を聞いたり、サンケイスポーツに書かれた原稿も読ませていただいています。その度に『なるほど。これが本物の野球なんだ』と感心していました。どうか、うちの選手たちに本物の野球というものを叩き込んでくれませんでしょうか?」

 ここまで言われたら心を揺さぶられないわけがありません。相馬さんの熱意に胸を打たれた私は、「よし、やろう。やってやるぞ!」と、監督就任の要請を受けることにしたんです。

 同時に、1977年秋にプレーイング・マネージャー解任を決めた南海ホークスの関係者に対する「見返してやる!」という思いもありました。解任の理由はサッチー(沙知代現夫人)との交際問題であり、成績不振ということではなかっただけに、やはり監督業に悔いも残っていたんですよね。

 のちに聞いた話によると、ヤクルト本社の役員全員が、私を監督にすることに反対だったそうです。もともと生え抜きの選手を大切にする球団ですし、明るいチームカラーに合わないということだったんでしょう。

 しかし、相馬さんは「もし監督人事が失敗したら、野村さんと一緒に私も球団社長を辞めます」とまで言い切ってくださったというのですから、本当にありがたい話でしたね。

 人生の岐路でさまざまな助言をいただいた評論家の草柳大蔵さんに、かつて「世の中には、見捨てる人も千人いれば、見てくださる人も必ず千人いる」という言葉を掛けてもらったことがあるんですが、このとき心から実感しました。

「ああ、見てくれている人はいるんだな。いい加減な仕事はできないな」と。

 やはり一球入魂。何事も真摯に取り組んでいくことが大切なんですよね。

明日の質問は「Q.20 評論家からヤクルトスワローズの監督就任後、最も役に立ったこととは?」です。