日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた

 

 

「責任を一身に負う切腹」は秀吉の発明

 

 切腹を名誉ある死として定型化させたのは、豊臣(羽柴)秀吉とみなすと、その歴史をシンプルに理解することができるだろう。秀吉は、織田信長(おだのぶなが)の家臣として、中国方面への進攻作戦を指揮していたころから、名誉ある死でありながら責任を一身に負わせる処罰へと、切腹を進化させようとしていた。きわめて合理的な発想にもとづき、政治や軍事のシステム全体の流れのなかで、切腹という自殺方法に新しい意味を持たせたのだ。

 三木城攻め、鳥取城攻め、備中高松城の水攻めという難攻不落の要衝(ようこう)を攻略する過程のなかで、秀吉は、城主が切腹すれば、籠城兵の命は救うという「城主切腹城兵救命」のパターンを編み出していく。その程と意味合いについては、項を改めて述べたい。

 城主切腹城兵救命のパターンは、小田原攻めで完成するものの、その後の天下分け目の関ヶ原では、城主が切腹せず、開城する事例が多数を占めた。細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)、京極高次(きょうごく・たかつぐ)、富田信高(とみた・のぶたか)らは、切腹することなく、開城している。城主たちにしてみれば生き残りたいと願うのが当然であり、攻城軍との交渉により、自身の命を守り抜いたのだ。

 その後、徳川の天下になると、切腹は儀式化し、法律として成文化されながら、名誉ある刑罰として定着するのだ。

<次稿に続く>